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第42話 大島 聰 物語

ソフト開発に携わってきた大島聰さん

えりかさんの結婚式で記念写真に収まる両家

コロンビア大学を卒業したえりかさんと

プール付きのカリフォルニアの家

グローバルに生きる先端技術者

日米中の3か国で担ってきた新時代

 コンピューター開発の先進地であるアメリカで、通算35年間にわたって半導体ソフトの開発技術者として新時代を担ってきた大島聰。ネイティブな英語を話し、生活スタイルもアメリカン。そんな大島が中国に渡ってきて、すでに9年が過ぎた。
「活気のあった25年前のシリコンバレーと似ている。発展途上にあり、エキサイティング。中国がどうなるのか見届けたかった」。その中国は目覚ましい発展を遂げ、世界第2位の経済大国となった。願いが果たされたいま、「中国を引き揚げ、東京か、サンフランシスコで暮らそうか」との思いがよぎる。日本とアメリカ、中国で暮らしてきた大島に、狭隘な国境意識はない。

中学校で人生に影響を与えた出会い

 終戦1年後の1946年(昭和21)10月、大島は札幌市の中心部で生まれた。父は高校英語教師の栄一、母は美佐。姉3人、兄1人の5人兄弟の末っ子で、両親、姉兄から可愛がられて育った。大島が地元の市立山鼻小学校に入学した時、長女の則子が6年、次女玲子が5年、長男仁が4年、三女宏子が2年と、3年生を除いて5人が見事に年子で並んだ。
 大島は学校から帰ると、野球やビー玉、メンコ遊びに夢中になり、冬は近くの藻岩山でスキーを楽しむなど、のびのびとした少年期を過ごした。中学は市立柏中学校に入学したが、ここで大島の人生に大きな影響を与える出会いがあった。浜二純子――同級生であり、いま大連で共に暮らす妻である。2人とも学級委員で、いつも一緒に行動していたが、そのころは互いに意識することはなかった。純子の記憶に今も強烈に焼き付いている光景がある。お昼のお弁当をフォークで食べる大島の姿だった。「何でお箸でないのかしら」。純子は大島にバタ臭さを感じていた。
 2年生の2学期に伏見中学校が開校し、家が近かった大島と純子は一緒に新設校へと移った。高校も同じ道立旭丘高校に入学。このころから、大島は機械いじりが好きになり、後に技術者への道を歩むことになった。きっかけとなったのが兄、仁との初めての喧嘩だった。もみ合っているうちにトランジスタラジオを踏んで壊してしまった。ラジオは貴重な情報源であり、大島は解体して直したのだった。以来、ラジオを作ったり、アマチュア無線を組み立てたりして、自らの手で作り出す喜びを知った。
 そのころ、則子はボストンの大学に留学。大島は高校2年生の夏休みの1か月、ボストンの則子の家で過ごし、この体験が大島の将来を決定づけた。日本の何倍もある住宅、街には大きなアメ車が走り、食卓にはビッグサイズの牛肉、テレビは娯楽番組が花盛り。そこには、生活を楽しむ、豊かな良きアメリカ時代があった。さらにNASAのアポロ計画がスタートし、科学技術は高揚期に突入。大島は「アメリカで先進的技術を勉強したい」と進むべき方向に確信を持ったのだった。

ボストンの大学でコンピューターを専攻

 日本に帰ってからは、則子が送ってくれたアメリカ版センター試験「SAT」の過去問題集を徹底的に勉強した。もちろん全てが英語だが、父の栄一や姉の則子の影響を受けて、英語が得意だった大島は言葉のハンデも乗り越えて難問に取り組んだ。しかし、3月の受験を目の前にした高校3年生の1月、栄一が胃がんで亡くなった。「元々は畜産業を志望していただけに、孵卵器を自作して鶏の卵を産ませたり、夏休みには自分の教え子との海水浴キャンプに連れて行ってくれたり、父といる時間は楽しかった」。父の死で大島の胸にぽっかりと穴が空いてしまった。
 だが、夢を諦めるわけにはいかない。3月に東京・府中の米軍キャンプで行われたSATの試験に臨んだ。その2か月後、合格の知らせが届き、ボストンのノースイースタン大学電気工学部に入学が決まった。8月半ばには、結婚してボストンに住む則子の元へと向かった。大学の専攻は花形のコンピューター科で、最新の知識を学ぶとともに、インターンシップとして大手電力会社で働き、ソフト開発を手がけた。刺激的なアメリカ生活だったが、大島はひたすら勉強に打ち込んだ。
 大学2年の夏に札幌に里帰りし、大手信託銀行に勤めていた純子と会い、アメリカに戻ってから文通をするようになった。しかし、まだ恋愛相手として意識はしていなかった。だが、5年間の大学生活を終えて一時帰国した時には、大島と純子の距離感は一気に縮まっていた。1970年(昭和45)6月、2人は23歳の大人になっていた。一緒に食事をして映画も観て、デートで2人の大切な時間を過ごした。大島は大学のマスターコースに入るため再びボストンへ戻ったが、今度は頻繁に文通して、互いに心の支えとなって行った。
 マスターを取得して、大島が帰国したのは翌年6月。羽田空港には札幌から純子が出迎えに来ていた。大島には在学中に日本の大手電機メーカーから入社の〝引き〟があり、帰国した翌日にその会社で面接、めでたく内定が決まった。が、その後で見学した社員寮と社宅に幻滅した。独身寮は3人部屋の共同生活、家族が暮らす社宅もアメリカと比べると、その環境は雲泥の差だった。「将来、頑張ってもこの程度の生活レベルか」。翌日、大島は「申し訳ありませんが、辞退させていただきます」と担当者に釈明したのだった。

プール付き住宅で夢のカリフォルニア生活

 この時点で大島はアメリカで暮らすことを決意していた。マスターコース在学中、インターンシップで働いていた電力会社から「卒業したら入社しないか」との誘いがあったのだ。大島は、迎えにきてくれた純子と札幌へ戻り、「アメリカで一緒に暮らさないか」とプロポーズ。2人は9月15日に札幌のカトリック教会で結婚式を挙げ、就職と結婚という人生の大きな節目を一気に迎えたのだった。
 2人は9月末にボストンへと渡り、郊外の閑静な場所に新居を見つけた。大島が入社したのはニューイングランドエレクトリック社。本社は森の中にあり、仕事場は個室を与えられた。ソフト開発には抜群の環境で、最先端の仕事にやりがいを感じ、仲間にも恵まれた。パーティーに呼ばれ、長期休暇にはアメリカ国内やカナダ、ヨーロッパ旅行にも出かけた。結婚から3年後の1974年(昭和49)12月、待望の長女えりかが生まれ、3人家族の幸福な生活となった。
 大島は電力会社から同じボストンのキャド開発システム会社GCAに転職して、半導体マスクの製造装置開発を担当。やがて転機が訪れた。カリフォルニアのシリコンバレーにあるGCAの取引先だった大型コンピューター会社アムダール社を訪れたときのことである。そのGCA支社長宅に案内されて驚いた。裏庭にプールがあり、車庫には自家用飛行機までが入っている。シリコンバレーはインテルやアムダール社などが次々と誕生し、エネルギッシュな草創期にあった。「こんな環境で仕事をしたい」。大島の思いは、天に通じ、人材を求めていたアムダール社への入社が決まったのだ。結婚から5年後の1976年(昭和51)だった。
 「夢のカリフォルニア」は現実だった。ソフト開発マネージャーとして仕事に充実感を感じ、家もあの憧れのプール付き住宅を知人から購入した。抜けるような青空の下で、アメリカで最も美しいハイウェー1280を車で突っ走る爽快感、フランクなカリフォルニア人。何もかもが感動的だった。アムダール社に14年間勤務し、その後はVLSIテクノロジー、アーテサン、センチリウムに移ったが、仕事は一貫して半導体に関するソフト開発、管理、セールスに携わってきた。大島は日本人として、アメリカを舞台にした最先端の技術者としてグローバルな世界に身を置いた。
 娘のえりかは地元の小中学校、高校、スタンフォード大学大学院、そしてニューヨークのコロンビア大学大学院で教育を受け、アメリカ文化の中で育ってきた。大島と純子は「日本人としての心を忘れないで」と、えりかの小さいころは日本語補習として日本人学校に週3回通わせた。札幌の祖母が大好きなえりかは、「おばあちゃんと話をするため日本語を一生懸命勉強する」と、その両親の思いに応えた。

夢の続きを求めて憧れの中国・大連へ

 大島は2001年、6年間の留学と29年間の仕事で過ごしたアメリカを離れ、今度はアメリカのディスプレイチップの会社に転職。日本支社の代表として支社の立ち上げを手がけ、東京・西新宿に事務所を設立。この会社には2004年まで在籍し、中国各地へ何度もセールスで訪れ、同じ東洋の国として居心地の良さを感じた。もっとも大島は、カリフォルニア時代から中国に惹かれ、「定年退職したら中国に行ってみたい」と中国語を学んでいた。
 憧れの中国・大連を訪れたのは、ディスプレイチップの会社を退職した2004年(平成16)6月、大島が57歳の時だった。「そんなに中国に興味があるならば」と、札幌市の北星学園大学教授(現理事長)だった姉の玲子が、提携校の大連外国語学院の中国人教授を紹介してくれ、面会のために訪れたのだった。夢のカリフォルニアに続く〝夢の中国在住〟を実現するため、大島は2か月後に大連へ語学留学、さらに1年後には大連の日系企業「高部企画」に入社、経験と技術力を生かしてソフト開発を手がけるとともに、キャドやデータ入力、DTPなどのIT業務を軌道に乗せた。
 5年後に高部企画を退職して、日本語学校「大連富山外国語学校」の校長に就任。同校は1年半前に閉校したが、大島と純子はいまも大連の自宅で中国、日本人の子どもや若者たちに、英語と日本語を教え、自分たちは家庭教師から中国語の指導を受けている。また、大島はジョギングや水泳で体を鍛え、仲間たちとの山登りも楽しみにしている。カリフォルニアで結婚して、3人の子どもと暮らすえりか一家に1年に1回会えるのも、大島と純子にとって幸福を感じるひと時でもある。
 「大連は、中国の若い人たちとふれあい、仕事でも必要とされる。団塊の世代が生き生きと暮らせる環境は素晴らしい」。大島と純子は大連の暮らしを謳歌する。だが、2人のグローバルで自由な人生の旅はまだ続く。「次はどこで暮らそうか」。住み心地の良い東京か、それともえりか一家の住むカリフォルニアか。大島と純子は次の人生プランを楽しんでいる。

この投稿は 2013年8月20日 火曜日 6:07 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2013-08-20
更新日: 2013-08-20
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