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第21話 竹田 春雄 物語

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時代と人に求められて来た設計人生
再び高度成長の中国で描く夢

時代と人に求められて来た設計人生

設計分野で挑戦する竹田春雄さん

再び高度成長の中国で描く夢

 大手建設会社の設計士として30年以上勤務した竹田春雄は、日本の高度経済成長期をリードした建築分野に身を置き、時代とともに突っ走って来た。後世に残る仕事も手がけ、都市近代化の一端を担って来た自負もあるだろう。しかし、竹田は「人の指図で動いて来た人生」とひょうひょうとした表情で語る。
 大連では設計コンサルタント会社を経営するが、これもまた「計画的に大連へ来たのではない。人の縁が大きく左右した」という。だが、竹田の人生には一本の道筋が浮かび上がっている。時の流れが竹田の技術と才能を磨き、求めて来たと言えるだろう。日本で培った経験が、高度成長期の中国で再び花を咲かせようとしている。

越後の自然に育まれた少年期

 新潟県頸城郡名立村――現在の新潟県上越市名立区。日本海に注ぐ名立川を5キロほど遡ったところにたたずむ小さな村だった。ここが竹田の故郷である。終戦2年前の1943年(昭和18)4月に生まれ、子どものころは川で鮎やイワナを獲り、冬は竹スキーを楽しみ、自然の中でのびのびと育った。
 実家は農業兼造り酒屋だったが、祖父と父の2代にわたって村長を務めた地元の名家である。父太三と母スミの6人兄姉の末っ子として生まれた竹田は、やんちゃながらも気持ちの優しい子どもだった。母親が大好きで、いつもまとわりついていた。だが、小学5年生の夏、その母は心臓を患って48歳の若さで他界した。竹田は亡骸に寄り添って一晩中泣き続けた。母の冷たい体温はいまも蘇ってくる。
 父太三は竹田の小、中学生時代の8年間にわたって村長を務め、入学式や卒業式には全校児童、生徒の前であいさつした。その度に同級生からからかわれ、恥ずかしい思いをしたのも、いまでは懐かしい思い出となっている。厳しく怖い父だったが、竹田にとって尊敬の対象でもあった。そのひとつが旧能生町にあった水産高校の定時制分校を誘致したことだった。当時の高校進学率はわずか数パーセントだったが、定時制の水産高校ならば働きながら勉強ができ、跡継ぎを育てることもできた。高校のなかった村にとって画期的なことであり、地元の教育と産業に大きく貢献したのである。
 竹田自身は地元の中学校から自転車と汽車通学の県立高田工業高校建築科へと進んだ。高校進学前に実家の造り酒屋は倒産して経済的に苦しかったこともあり、「手に技術のある大工で将来は生計が立てられるように」と父の勧めで進路を決めた。竹田は中学校時代から数学が得意で、高校では100人中トップの成績。小、中学校、高校で児童・生徒会長となった地元の典型的な優等生だった。

後楽園球場のビール売りから大成建設へ

 高校卒業後は就職するはずだったが、実業界から教諭となった担任が大学進学を勧め、竹田も「もっと勉強して大学へ行きたい」という気持ちが高まって来た。結局は上京して1年間の受験浪人生活。新宿の西荻窪に住んでアルバイトをしながら受験勉強を続けた。バイトは読売巨人軍のホームグラウンドである後楽園球場でのビール売り。王貞治が1試合4連続ホームランを打った時もスタンドでアルバイト中のことだった。これ以来の熱烈な巨人ファンになった。
 翌年の1963年(昭和38)4月に晴れて明治大学工学部建築学科に入学。実家は相変わらず経済的に苦しかったため、竹田は後楽園球場でアルバイトを続け、日本育英会から奨学金をもらって授業費、生活費をまかなった。学生時代は設計を学び、ゼネコンへの就職を目指した。
 竹田が卒業した1967年(昭和42)は好景気にわき始めた〝昭和元禄時代〟の幕開けと言われ、大手建設会社は数百人単位で新入社員を採用した。設計部門も引く手あまたの売り手市場。竹田は数社を比較したが、大成建設の雰囲気がもっとも明るく、「だれでも社長になれます」という入社案内も気に入った。同族閥企業にはない、開かれた社風に惹かれて大成建設の設計本部に入社した。
 東京本社では3年間勤務したが、同期入社の同僚たちとの実力の差は歴然だった。設計図を見れば個々の技術と知識、センスが一目瞭然となる実力の世界。都会育ちの同僚たちは学生時代からアルバイトで図面を引き、竹田は後楽園球場のビール売りに明け暮れていた。愕然とした竹田は毎日遅くまで残業して製図板に向かった。何でもコツコツと取り組む粘り強い越後人の本領発揮である。この頃に手間ひまかけて取り組んで来た基礎が、いまの竹田に生きている。
 竹田の設計には、省エネや環境問題に対する「環境倫理」の理念が映し出されるようになっていた。また、数をこなすことで〝手が考え、手が線を描く〟ことの意味を知った。設計は経験則の学問であり、知識が体内でこなれ、自分のものとなって、頭で考えるのではなく、手が考える領域に達して、初めて納得できる作品が出来上がるのである。

〝手が考え、手が線を描く〟領域に

 本社勤務の後は故郷の新潟支店に配属となって13年間在籍した。この新潟時代は設計士として経験と実績を積み、竹田を成長させたかけがえのない時間となった。その代表的な仕事のひとつが金沢医科大学の新築設計だった。支店は若干27歳の竹田にすべてを任せたが、厳しい制約の中での業務遂行だった。
 敷地面積、建物面積ともに約3万平方メートル。校舎から実験棟、管理棟、図書館、体育館、食堂、宿舎などすべての設計、建設を4月に着工し、文部省(当時)の認可審査が行われる10月に完成させなければならない。総工費90億円の大工事だが工期はわずか半年。とても新潟支店だけではこなせない。竹田は本社設計本部の応援を取り付け、自ら現地で寝泊まりして陣頭指揮をふるった。建築スタッフは現地で指示を待っている。時には時間がなくてザックリとしたスケッチを基に工事を進めたこともあった。竹田は現場主義を徹底的に叩き込まれた。
 人海戦術が功を奏して10月には完成、文部省の認可も下りて大成功を収めた。社内評価も高く、この仕事を機に主任に昇進、その後も係長、課長と出世街道を着実に上り続けた。もうひとつ竹田の評価を高めさせたのはローコスト建築だった。大手スーパーマーケットや温泉施設などコストの安い仕事も担当し、すべて黒字にして支店の収益に貢献したのである。
 〝手が考え、手が線を描く〟領域に達した竹田は本社設計本部に戻り、活躍の舞台をさらに広げた。脂が乗り切ってきた39歳のことである。課長として10人の部下を率いて富士銀行(当時)の店舗やホテルオータニグループの仕事も手がけた。さらに1年後にはエンジニアリング部へ配属となり、設計前段階の社会開発エンジニアリングの課長に就任。社会工学や都市工学を取り入れて街づくりからプランニングする。竹田がもっとも得意とする分野でもあった。
 特に医療分野の設計に長けたメンバーがそろっていたこともあり、病院や学校建築では大きな実績を上げて来た。ついに竹田はエンジニアリング本部の本部長となり、その後も設計本部環境DESIGN部長、同本部技術情報部長などを歴任。しかし、1997年(平成9)にはライン部長を離れ、「もっと第一線で仕事をしたい」と悶々とした日々を送っていた。定年まで3年を残した2000年(平成12)、33年間勤めた大成建設を退社したのだった。
 早期退社の大きな理由はもうひとつあった。結婚30周年経った妻尚子への女房孝行だった。京都の地図店の娘だった尚子は、勤め人生活に憧れていた。しかし、竹田は仕事と夜の付き合いに追われ、母子家庭状態を尚子と2人の子どもに強いて来た。罪滅ぼしの気持ちもあった。竹田は60歳までの3年間、尚子と世界中を旅行したり、自宅でのんびり過ごしていたりしていた。

「志をはたして」を胸に刻む挑戦

 そんな竹田に転機が訪れた。大成建設時代から付き合いのあった造園会社が大連で景観設計の仕事をしていたこともあり、その経営者が「何もしていないのならば大連に行ってみませんか」と誘って来た。隠居生活にも飽きて来た竹田は渡りに船と、初めて中国大陸の土を踏んだ。だが、竹田を誘った理由があった。大連で紹介された建設会社の女性経営者が4ヘクタールの都市開発を設計してみないか、と言うのである。はじめから仕組まれていたことだった。だが、日本でこれほどスケールの大きなプランニングはない。しかも「好きなように線を書いて欲しい」。竹田は日本へ帰った後、1か月かけて図面を描き上げた。
 結局はこのプランは日の目を見ずに終わったが、2002年(平成14)春からはホテル暮らしで商業・住宅ビルの設計を手がけ、翌年にはアパートの1室を借りて、次々と持ち込まれる仕事をこなした。こうして2005年(平成17)までフリーランサーとして活動し、ついに2006年(平成18)には大連春緑設計咨詢有限公司を設立、本格的な活動に乗り出した。
 これまで大連でも数々の設計をこなして来た。大連駅北側の振富商城や実験住宅の動力街、旅順住宅の全体計画と温泉施設、友誼医院、大連工商連ビル、瀋陽花博温室、満州里ロシア園など設計コンペに当選した作品を上げればキリがない。しかし、竹田はまだ満足していない。提携会社と協力して設計から施工管理まで手がけることで成功への道が開けてくる。大連ビジネスはまだ不完全燃焼にある。
 「気がつけば夜中でも起きて仕事をしていることがある。しかし、この気力と体力はいつまで続くだろうか。そして妻や子どもたちの許容量はどこまで持つだろうか。その狭間で揺らいでいる自分がいる」
 いまも葛藤する竹田。しかし、自らの思いを唱歌「故郷」の歌詞になぞる。「志を はたして いつの日にか 帰らん」。中途半端で撤収することはできない。竹田の挑戦はまだまだ続く。

この投稿は 2011年8月2日 火曜日 10:44 AM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2011-08-02
更新日: 2011-10-10
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