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第52話 西川 望 物語

ゴルフとの出会いに感謝する西川望さん

ゴルフとの出会いに感謝する西川望さん

目標はゴルフからビジネスへ

円滑に広がってきた人間関係

 勝敗の世界に生きてきたプロゴルファー西川望。勝って歓喜に身を震わせたことがあれば、負けた悔しさに涙したこともあった。アスリートとして、決して順風満帆な道のりではなかった。壁にぶち当たってゴルフバックを封印したことがあった。だが、今は違う。
 「ゴルフは人とのコミュニケーションを取り持つツール。やっとゴルフと仲直りができた。この出会いに感謝している」
 人生の目標だったゴルフが、ビジネスの成功に向けた手段になってきた。教えることで人間関係を深めさせ、教える喜びも知るようになった。西川はゴルフと〝いい関係〟を保ちながら、人生の夢を追いかける。

力強くも華麗なスゥイング

力強くも華麗なスゥイング

ゴルフとの運命的な出会いは小学5年生

 明徳義塾は完全寮生活、完全クラブ制。西川は当 大阪都心のベッドタウン・大阪府和泉市が、西川の生まれ故郷である。ロッキード事件に政界が揺れ、田中角栄前首相が逮捕された1976年(昭和51)7月27日、西川家の長男として誕生した。家族は両親と妹、祖父母の6人。父、力(つとむ)は不動産・建設業を営み、母、美齢子(みれこ)も喫茶・うどん店を経営し、西川と2歳下の妹、由美を育ててくれたのが、清と静の祖父母だった。孫6人のうち、男の子は西川1人だっただけに、祖父母は溢れんばかりの愛情を西川に注いだのだった。
 経済成長とともに、和泉市は急速に発展したが、西川が幼いころは、まだ田園風景が広がっていた。遊びといえば、小魚を獲ったり、昆虫をつかまえたり、自然の中で伸び伸びと育った。鮮明な思い出として残っているのが、力とよく行った海釣りだった。力は小型クルーザーを持っていたほどの釣り好き。厳格な力だったが、船釣りには必ず西川を連れて行った。西川がもの心ついた時、船酔いはしなかったが、車酔いをしたものだった。
 小学校は地元の市立北池田小学校に入学。書道やそろばん、少林寺拳法などを習い、放課後は友人とともに野山を駆け回って遊んだ。そんな西川に運命の出会いがあったのが、小学5年生の時だった。釣り一辺倒だった力が、周囲の影響を受けてブームとなったゴルフを始めたのである。練習場に西川を連れて行き、西川も見よう見まねでクラブを振るようになっていた。
 中学校は、「祖父母に甘えさせられて育った望を教育するにはここしかない」と、力が決めた。それは全寮制の中高一貫教育校である高知県の明徳義塾中学校・高等学校だった。力の知人の息子が明徳義塾に入学して相撲部に入り、手がつけられなかったほどのやんちゃ坊主が、わずか3か月で別人のように変わったのだった。その姿を見て、力が決めたのである。
時の人気グループ「チェッカーズ」に憧れ、サックスを吹きたいと吹奏楽部に入った。だが、力の勧めでゴルフ部に転部した。西川にとって、力は絶対的な存在であり、この転部で西川の人生の方向が決まった。後に西川はこう述懐している。「ゴルフと明徳義塾に出会えたことに感謝している」。それは、力の愛情に対する精一杯の気持ちの表れなのかも知れない。
 ゴルフ部は小学校を卒業したばかりの中学1年生から、大人と変わりない高校3年生までの140人。上下関係の厳しさとともに、練習も半端でないほど過酷だった。生活態度や言葉使いが悪いときなど、先輩の鉄拳が飛んできた。練習も走り込みや筋肉トレーニング、素振り、打席打ちなど、休みなく続いた。ここで西川のゴルフと人間としての基礎が築かれたのである。

桃山学院大学をリーグ2部から1部へ

 高校は明徳義塾のスポーツ学科に進んだ。午前中は授業を受け、午後から部活動となり、ゴルフに明け暮れる毎日。それだけにゴルフの実力は確実にアップして行った。高校3年のとき、北海道で開かれた文部大臣楯争奪大会にレギュラーとして出場。団体戦で優勝し、初めて楯を四国に持ち帰った。テレビでも放送されたが、全国優勝にもかかわらず、放送時間は平日の深夜。「緑の甲子園」と謳われた大会だったが、野球とのあまりの格差に愕然とした
 大学は全国でも強豪の有名大学など6大学が、西川に推薦入学の声をかけてきた。しかし、西川が選んだのは、自宅から歩いて通学できる桃山学院大学だった。当時でもゴルフ部で活動するには、学費をはじめ、アパート代やゴルフ道具代、自家用車、試合参加の旅費や宿泊費など、4年間で数億円かかると言われていた。実家にはそこまで資力はない。関西2部リーグだった桃山学院を選んだのは、当然の成り行きだった。
 ところが、大学に入ってゴルフへの情熱が薄らいで行った。規律の中で過ごした中学、高校時代とはまったく違う世界。練習メニューもなく、すべてが自分自身の判断に任され、急に凧の糸が切れたような環境に戸惑いもあった。ゴルフ部活動は続けていたが、打ち込む気力が失われていた。「こんなことではダメだ」と、奮い立たせたのが2年生のときに出場した日本学生ゴルフ選手権の予選だった。
 1次予選会はトップクラスで通過したが、2次予選会を前にして運転していた車で出会い頭の交通事故を起こしてしまった。相手側の一旦停止違反が原因だったが、西川はむち打ち症となり、2次予選会に出場したものの、ゴルフにならず散々な結果に終わってしまった。あと一歩での予選落ちに悔しさがこみ上げてきた。それと時を同じくして、クラブ内の気持ちがひとつにまとまってきた。「2部に甘んじていてはいけない。1部入りを目指そう」。西川が2年生の時に1部リーグに昇格、西川自身も関西ベスト20には常時、入るようになった。
 4年生のときに、その願いが実を結んだ。圧倒的に強かった近畿大学に勝って関西リーグ初優勝を果たし、日本選手権でも3位入賞。以来、桃山学院は強豪校の一角を占めるようになり、西川は仲間とともに栄光に向かって歩み続け、夢を成就できたことを誇りに思っている。

西川さんのイメージキャラクター

西川さんのイメージキャラクター

1打差に泣いたプロツアーの予選落ち

 卒業後は「ゴルフをとったら何もない」と、明確な目標がないまま、芦屋カントリー倶楽部の研修生として入社した。プロを目指す研修生は西川を含めて5人。月給わずか10万円で生活し、ゴルフ人生と真剣に向き合う仲間の姿に目が覚めた。「ゴルフをなめたらいかん」。師匠と仰ぐアプローチの名手、平石武則の技を盗んで学び、プロへの道を歩き始めた。
 研修生2年目の1999年(平成11)にツアー出場できる日本ゴルフツアー機構(JGTO)主催のクォリファイングトーナメント(QT)2次予選を通過、プロとしての資格を取得した。翌年にはツアー出場枠が増えるQTファイナルを通過、2001年(同13)年のツアーに5試合出場できることになった。結局はいずれも予選落ちで涙を飲んだが、今でも悔しさがこみ上げてくるのが、その年の夏に行われたマンシングウェアオープンだった。
 ボギーならば決勝進出できるミドルの最終ホール。右からの横風を計算してテーショットのドライバーを右狙いで打ったが、ボールは風を突き抜けて右土手に。220ヤードの2打目はパーオンを狙ったが、ボールは木に当たってダブルボギーとなってしまった。悔やみきれない1打差の予選敗退だった。その翌年、経費ばかりかかるゴルフに見切りをつけた。プロから長距離トラックのドライバーへの転身。十数年間も握り続けてきたゴルフクラブとの決別は、苦渋の決断だった。
 家に帰ることもできない過酷な仕事のドライバーは半年で辞め、最後の砦だった力が経営する不動産、建設業に入社した。だが、心に余裕がなかった西川は、厳しく接する力の本当の気持ちを読み切れず、3か月で力のもとを去った。「父は従業員を直接怒らず、私に怒って間接的に注意を喚起した。それを理解する余裕はなかった」。
 そんな西川に桃山学院大学に留学していた中国人から、「上海で一緒に電線の貿易をやろう」と声がかかった。行き場のない西川は上海行きを決断し、人生の舵を大陸へと切った。2002年(同14)末のことだった。ところが、日本から輸入した電線は中国国内でまったく売れず、半年で会社を転売、西川は再び日本へ戻ったのである。2004年(同16)春には、親戚が経営していたカーケミカルの製造会社を手伝うことになった。

ゴルフを通した多くの人との出会いに感謝

 その翌年、再び中国とかかわり合うことになった。カーケミカル事業を中国で展開するため、西川が出店責任者として中国東北地方に派遣された。出店地をどこにするか市場調査する中で、大連の素晴らしさに目を見張った。バス停に人が並んでいる光景は、上海では見たことがない。日本に対する市民感情も良い。「店を出すならば大連しかない」。2005年(同17)7月、太原街に洗車とコーティングの「ファイブスター」をオープンさせた。
 事業に打ち込んでいた西川だが、ひょんなことからゴルフクラブを手にすることになった。お客の中国人が、店の電話番号を調べるため、ネットで西川の名前を検索したところ、プロゴルファーだったことが分かった。「なんで言わなかったのか。ぜひ、ゴルフを教えて欲しい」。こうして西川は2006年(同18)春ごろから、中国人数人に個人レッスンをはじめたのである。しかし、日本人との接点はほとんどなかった。
 そんな西川が大連の〝日本人社会デビュー〟したのは、前長興島ゴルフ倶楽部経営の加藤邦彦との出会いがきっかけだった。西川は昨年7月、ゴルフ練習場「林海会所」とプロ契約し、加藤もここにマルマンのゴルフショップを出店していた。ゴルフに打ち込んできた2人は意気投合、加藤の口利きで西川はマルマンと用具提供の契約を結ぶことができた。また、西川を師匠とするゴルフ愛好会もできた。
 「教えることが嫌いだったのに、いまはゴルフを通した出会いに感謝し、教えることに喜びを感じる。それに、格好付けることなく自然体でゴルフと向き合えるようになり、人間関係をスムーズしてくれることも知った」
 西川の目標はビジネスを成功させることであり、ゴルフはそのための大切なツールでもある。5月末には「ファイブスター」を太原街から裕景マンションの地下2階に移転、オープンさせる。プロゴルファー西川の新たなラウンドが始まった。

西川さんの指導は熱血

西川さんの指導は熱血


ゴルフを通して心通わせる加藤邦彦さん

ゴルフを通して心通わせる加藤邦彦さん

この投稿は 2014年6月11日 水曜日 6:04 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2014-06-11
更新日: 2014-06-14
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