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第49話 坂野 誠 物語

仕事と趣味で大連生活を楽しむ坂野誠さん

仕事と趣味で大連生活を楽しむ坂野誠さん


奈美ちゃんと一緒に五右衛門風呂

奈美ちゃんと一緒に五右衛門風呂


釣り上げた魚を前にして「やった!」

釣り上げた魚を前にして「やった!」


会社のスタッフと

会社のスタッフと

仲間との輪を大切に追いかける夢

日本基準の技術を伝え残したい

 中国では数少ない設備施工図会社を大連の開発区に立ち上げ、中国人女性と結婚して生活の軸を中国に置く坂野誠。今年3月で47歳を迎え、仕事、私生活面でも脂の乗った人生を送る。
 「この開発区の日本人社会が好き。会社や役職を超えた付き合いができる、開発区ならではの人間関係がとても居心地良い。仕事面では、日本基準の技術を中国人スタッフにどこまで伝えることができるか、課題も少なくない」
 現実をポジティブに捉えて歩んできた坂野。人の輪を大切にしながら〝大連チャレンジ〟が続く。

船橋の少年期がアウトドアの原点

 国産自動車の新型モデルが続々と投入され、初の大気汚染裁判となった「四日市ぜんそく訴訟」が始まるなど、日本経済が高度成長真っただ中の1967年(昭和42)。坂野はこの年、東京都目黒区自由が丘に生まれた。父順一は営業職のサラリーマン、母なほみは事務のパートとして家計を支えた。兄妹は5歳年上の晴美との2人。戦後の典型的な家族だった。
 坂野が3歳の時、順一の転勤で千葉県船橋市に転居。坂野の記憶はこの船橋から始まる。当時の船橋はまだベッドタウン化が進んでおらず、野原や林、池、川が身近にあり、昆虫やザリガニを獲るなど、自然を友だちとして伸び伸びとした少年期を送った。いま、大連で釣りの愛好会やアウトドアサークルのリーダーとして活動する坂野の原点は、すでにこのころから培われていた。
 小学校は地元の市立大穴小学校。自らを「悪ガキで問題児だった」と振り返る。授業を抜け出しては校庭で遊び、その度に両親が担任に呼び出されては注意を受けたのである。座っているより体を動かす方が向いていたのだろう。順一が高校のころ、野球部に所属していたほどの野球好きだった影響も受けて、坂野もまた町内の野球チームに入って白球を追いかけた。キャッチャーで5番、憧れは読売ジャイアンツの長嶋茂雄だった。
 中学校も歩いて5分ほどのところにある地元の市立大穴中学校に進んだ。部活動は野球部に入ったが、他の部員との力の違いに「素質がない」と諦め、バレーボール部に転部。同校のバレーボール部は、県レベルの強豪校で全国大会にも出場するほどだった。ジャンプ力があった坂野はレギュラーとなったが、3年生の時に一家は母親なほみの親戚が住む栃木県小山市に引っ越し、バレーボールと決別することになった。
 高校は近くの佐野日大高校に入学。高校野球の有力校で、「甲子園に行けるチャンスがあるかもしれない」と野球部に入部した。しかし、練習の厳しさは想像を絶するものだった。早朝の5時から朝練が始まり、放課後は夜7時まで続いた。先輩後輩の上下関係も激しく、〝ケツバット〟のしごきは日常茶飯事だった。そんな激しい部活動で、坂野の体力は限界にきていた。2年生の真夏のことだった。練習中に倒れ、意識を失って病院に担ぎ込まれた。医師の診断は、「心臓に負担がかかり、運動を続けることはできない」。

ロックバンドに明け暮れた大学時代

 退部した坂野は時間的な余裕ができ、別の目標を抱くようになっていた。「大学に進みたい」。大学受験用の問題集を買い込み、運動から勉強へと生活の軸を変えた。希望進路は東京にある大学の建築関係。しかし、受験に失敗、滑り止めとして受けた群馬県太田市の関東学園大学経済学部に入学した。経済的な理由もあって受験浪人はできない。行ける大学に入ることにしたのである。
 通学は片道3時間近くかかった。自宅のある小山駅から東北本線で久喜駅、さらに久喜駅から東武線で太田駅まで。ウォークマンで音楽を聴きながら、講義をさぼることもなく通い続けた。暇な時間は、小さいころから憧れていたギターを弾き始めた。2年生になると、坂野の周りに音楽好きな仲間たちが集まるようになってきた。エレキギターの坂野とキーボード、ドラム、ベース、ボーカルの5人。間もなくハードロックバンド「ウェーブ」を結成、毎週末には埼玉県大宮市のスタジオを借りて練習した。
 女性ボーカルは、後に歌手アン・ルイスのバックコーラスを務めたほどの実力派。ドラムも兄がプロドラマーだったこともあり、テクニックと音楽界の人脈を持ち合わせていた。「ウェーブ」の音楽性は高く、毎月1回は東京・吉祥寺のライブハウスに出演。坂野の大学生活はハードロックとともにあった。
 やがて就職シーズンがやってきた。経済学部だけに、主な進路先は銀行や証券会社などが中心だったが、机に向かう仕事が苦手の坂野は「建築関係の就職先はありませんか」と担当教授に相談。たまたま教授の知人が東京・大田区で設備施工会社「第一テクノ」を経営していたこともあって、入社は即決した。バブル経済絶頂期の1989年(平成元)のことだった。
 会社は200人ほどの中堅だったが、東京都庁や恵比寿ガーデンプレイスなどの設備管理を請け負う優良企業。同期入社は6人いたが、坂野を除く5人は全員が理工系の出身。坂野は現場の施工管理を担当したが、はじめは工具の名前さえ分からず、歴然とした同期との〝差〟を思い知らされた。休日も現場に出て、配管、配線の職人たちと一緒に働き、体で仕事を覚えた。「同期とやっと肩を並べることができた」と実感したのは入社から3年が経っていた。

念願のゼネコンから大連で独立の道を

 仕事への自信もついて来た30歳のころ、清水建設が施工する高層ビルの建設現場に常駐、清水建設の社員と多くの時間を過ごすようになっていた。工事はゼネコンが頂点にあり、その下に各部門の下請け業者が続く縦社会。いつしか坂野は「大きな舞台のゼネコンで腕を振るってみたい」との思いを抱くようになっていた。そんな夢のような話が現実になった。親しくなった清水建設の中間管理職に「今の会社を辞めたい」と相談したところ、「それじゃぁ、清水に来い」。坂野の仕事ぶりを認めていただけに、転職がすんなりと決まったのである。坂野、31歳のときだった。
 配属先は清水建設横浜支店の設備部。担当業務は前の会社と同じだったが、大企業だけに仕事は細分化され、それまで1人でやっていた材料の調達から見積り、積算、施工図作成は専門部署があり、坂野の仕事は管理に特化されていた。入社2年目に施工図グループに配属され、図面、作図管理を担うことになった。これが大連とかかわり合うきっかけとなり、人生の方向が向きを変え始めて行った。
 設備施工の図面は大連の施工図会社に発注していたが、図面チェックのため月に1回は大連を訪れるようになった。ちょうどSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行した2003年(平成15)当時で、成田からの飛行機内は坂野1人だったこともあった。そんな時でも大連は活気に溢れ、輝いて見えた。経済成長期に突入し、街中には建築ラッシュのツチ音が響き渡っていた。
 坂野には野心が芽生え始めていた。「歯車のひとつに過ぎない大企業から、自分の実力で人生を切り拓く、起業家としての道を歩みたい」。中国には日本にないチャンスがあるようにも思えた。決断させる要因はもうひとつあった。後に結婚した呂雪さんとの出会いである。友人の紹介で知り合ったが、当時、坂野は中国語ができず、呂も日本語が話せない。辞書を引きつつの筆談だったが、互いに心を通わせ結婚を意識するようになった。
 ついに2006年(平成18)、清水建設を退社して呂と結婚、一粒種の奈美も授かった。独立へのソフトランディングとして、まずは清水建設が施工図を発注していた施工図会社に就職。スタッフは200人で日本人は坂野1人、家では日本語のできない呂との生活。24時間中国語漬けの日々が続いた。中国での生活と言葉にも慣れ始めた2008年(平成20)、夢を実現させた。開発区に設備施工図管理会社「大連誠友科技有限公司」を設立したのだった。

営業活動で知った人間関係の大切さ

 仕事の取引先は、古巣の清水建設や福岡の設備施工図会社などの日本企業。施工図作成、管理とともに、3年前からは大連で操業する日系メーカーの配管や電気など建築施工業務も手がけるようになってきた。独立していつの間にか7年が経ったが、当初は仕事をもらう営業の難しさを思い知らされた。それまでは技術畑を歩んできただけに、営業の基本が全く分からずに、緊張して言葉がでないこともあった。
 そんな坂野が悟ったのは、人間関係がいかに大切か、ということだった。人のつながりが営業に結びつき、仕事をスムーズに運んでくれることを知った。分野の違う建築設備の仲間とも、互いに協力する関係も生まれてきた。空調設備や照明など異業種の会社経営者が仕事を紹介し合っている。海外で事業を展開する苦労を骨身に沁みている仲間たちの互助意識だ。
 仕事面だけでなく、坂野には大切な仲間たちがたくさんいる。釣り愛好会「5㎝倶楽部」とアウトドアサークル「五右衛門会」のリーダーとして、それぞれ30人ほどのメンバーをまとめている。「5㎝倶楽部」は4月から11月までの毎週末に船釣りを楽しみ、時には遠出をして大物釣りに挑戦する。「五右衛門会」は瓦房店のダム湖畔にある農家を借りて、毎月1回のキャンプで自然味あふれる生活を満喫。ドラム缶の五右衛門風呂から見上げる満天の星は、大自然に身を置くことの素晴らしさを感じさせてくれるのだ。
 坂野は開発区に根を下ろして6年、「ここに来て良かった」と思う。街は活気に満ちあふれ、いまもなお発展する姿を目にすることができる。そして、日本では決してふれ合うことのできないであろう、他社の人たちとの出会い、親密な関係もうれしく感じる。だが、坂野の夢はまだ途中にある。
 「このビジネスを成功させるのが私の目標。それは仕事の完成度を日本レベルに引き上げること。日本と中国の施工職人の精度が違い、中国は日本のお客様に満足していただけるレベルにはない。職人の仕事は最終的に感覚の世界。日本の緻密さを伝えて行きたい」

この投稿は 2014年3月6日 木曜日 7:57 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2014-03-06
更新日: 2014-03-06
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