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第40話 松岡 優平 物語

誕生日イベントでお客と乾杯

松岡さんが絶賛するイタリア中部のトスカーナ州の赤ワイン

大連岐阜県人会の新忘年会で

迷い悩みながら挑む大連の壁

料理人としての喜びを感じて

 人生の進路に迷って、一時は仕事を変えたこともあった。だが、料理人としての自信が持てるようになり、進むべき道も見えてきた。「お客様から、美味しい、と言っていただけることに、料理人としての喜びを感じる」。
 ダイニング&バー「AMORE」のオーナーシェフ松岡優平、35歳。これまで何度か人生の岐路に立たされてきたが、またもや次の壁が見えてきた。何とか試練を乗り切って、「この大連で喜んでもらえる料理と作り続けたい」。松岡の新たな挑戦が始まろうとしている。

父親は曲がったことが嫌いな税務署勤務

 松岡は1978年(昭和53)4月、名古屋市中村区の中村日赤で次男坊として誕生した。当時は高度経済成長期から安定経済成長期に入り、日本は石油危機に見舞われたが、経済成長の余韻がまだ強く残っていた。ピンク・レディーが一世を風靡したのもこの年だった。「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」など次々と大ヒットを飛ばし、テレビの歌番組を独占していた。
 しかし、松岡は浮かれた世相とは無縁の堅い一家に育った。父、禎二は税務署勤務、母、好美は家庭をしっかり守る専業主婦。禎二は愛知県の名古屋や一宮、岐阜県の大垣や多治見の税務署に勤務した転勤族だった。定年前は国税調査官を務めただけに、曲がったことや不正は大嫌い。頑固で子どもたちにも厳しく、家族が食事をする時はテレビをつけさせず、マンガを読むことも許さなかった。
 松岡の幼いころの思い出は、中村区から移り住んだ愛知県瀬戸市に始まる。岐阜県境の瀬戸市は、田んぼの向こうに山が続き、街に清流の水野川が流れる、のどかな景色が広がっていた。遊びと言えば川でのオイカワ釣りやザリガニ獲り。しかし、幼児期の松岡は、団体が苦手で、どちらかと言うとおとなしい性格だった。
 小学校は瀬戸市立水野小学校。低学年のころは女の子20人で男の子はわずか3人の料理クラブに入った。動機はお菓子やデザートが食べられるからだった。料理クラブは週1回の活動で、サッカーも少しはやったが、周囲からは「女みたいだ」とはやされた。
 小学校3年から5年までは、禎二の転勤で静岡市立西豊田小学校に転校した。水野小学校は全校児童600人ほどだったが、西豊田小学校は1600人のマンモス校。転校生だったが、クラスメイトは歓迎してくれ、「松ちゃん」と呼んですぐに仲良くなった。住まいは団地だったので、いつも同じ団地の仲間たちとプロレスごっこや野球をして遊んだものだった。
 小学5年生の途中で、再び瀬戸の水野小学校に戻ってきた。この時、団体が苦手でおとなしい松岡の陰は消えて、明るく活発な性格に変わっていた。転校によって鍛えられたのだ。中学校も地元の市立水野中学校に進み、強制的だった部活動は、「女の子にもてそうだから」と軟式テニス部にした。しかし、顧問教諭がとんでもなく厳しい人で、松岡たちは〝鬼先生〟と呼んでいた。
 朝練はグランド10周のランニングに加えて筋トレ。放課後もたっぷりの練習メニューが組まれた。ボールをなくすと、見つかるまでボール探しをさせられた。しかし、実力がメキメキとついて、国体地区予選では上位になって県大会に出場。もっとも、愛知県のレベルは高く、県大会では初戦敗退の辛酸をなめたものだった。

跡継ぎ目指して簿記などの資格取得

 高校進学は、「商業高校を出て将来は税務関係の仕事をしろ」との禎二が決めて、岐阜県瑞浪市の中京商業高校商業科に入学した。中京商業はテニスの強豪校でもあり、テニス部に入部しようかとも思ったが、強化クラブは全寮制だったため断念し、瀬戸の自宅からJR中央線に乗って、毎日1時間半をかけて通学した。
 1、2年は一生懸命勉強し、簿記の日商2級、情報処理2級、さらには秘書検定、珠算の資格も取得。3歳年上の兄、武志は郵便局員となり、松岡が父親の跡を継ぐというレールも見えてきた。松岡は高校卒業後、名古屋の専門学校に進み、簿記1級の取得を目指したが、最初は全員同じ3級からの授業。2級を取得していた松岡は、嫌気がさして半年でやめた。松岡は禎二に謝ったが、跡継ぎを期待していた禎二は松岡に口をきかなくなってしまった。 
 松岡は愛知県春日井市高蔵寺の居酒屋でアルバイトをはじめた。これが料理人となるスタートとなった。最初の半年はホール担当だったが、お客から「美味しかった!」との声を聞くたび、自分で作ってみたいという欲望にかられていた。店のチーフに相談して、晴れて〝店内異動〟で調理場担当となったのである。ここで2年間働き、焼き場から揚げ・あおり場、板場をこなせるようになっていた。
 その後の2年間は名古屋のバーに勤務し、それから名古屋市千種区のイタリア料理店「ロマーノ」に入り、ここでイタリア料理の面白さにふれたのだった。同店の名駅店を経て、24歳で高畑店長に抜擢された。ホールとキッチン合わせてスタッフ14人の郊外店。ダイニングバーとして主婦や勤め帰りの客などでにぎわった。しかし、料理の味を巡って上司と意見が合わず、1年で名古屋市中区の矢場町にあるレストラン「イタリアーノ」に移ったのである。
 その3年後の2006年(平成18)、今度は中区のナディアパークのイタリアレストラン「ベリットサ」に入店した。松岡は28歳となり、料理人として味が分かってきたころだった。オーナーはイタリアで修業したイタリアンのエキスパート。しかし、一切教えてくれない。オーナーが料理した鍋にわずかに残ったソースを味見して、何を使っているのか〝盗んだ〟のである。

イタリア料理の基礎を築いた「ベリットサ」

 この「ベリットサ」時代が、松岡の料理に対する基本となっている。オーナーは和食とイタリアンの共通点を追求した。フレンチはソースで味を作るが、オーナーは素材の味を生かし、過度な調味料を使うことはなかった。当時、松岡には付き合っていた女性がいた。同じイタリアンの料理人で結婚も考えた。しかし、松岡の給料では生活できない。もっと高い収入が得られる会計の仕事に就こうと2年後に退職した。松岡は30歳になっていた。
 簿記2級の資格を持った松岡だが、職安で紹介された会計事務所を回っても、どこも採用してくれなかった。その数はついに50社に上った。資格はあるが、経験がなかったためだった。しかし、禎二はそんな松岡に心を開きはじめた。禎二はすでに定年退職して、有名企業の顧問を務める一方で、自分の会計事務所を開いていた。
 松岡は禎二の仕事を手伝いながら職探しをしたが、6か月が過ぎても就職は決まらない。不安と焦りが募り、さらには結婚を考えていた彼女とも話題や意見が合わなくなってきた。いつの間にか疎遠になっていた。
 そんな松岡のために禎二が動いた。禎二の紹介で、岐阜県羽島市に本社を構える税理士法人への就職が決まったのだ。名古屋の事務所に勤務し、顧客先を回ったり、決算データを入力したり、料理人とは全く別のサラリーマン生活が始まった。「あのときはありがたかった。父に感謝した」。松岡の言葉は多くはないが、父の愛情を感じ取った。以来、2人は一緒に酒を飲む機会が増えたが、大先輩の禎二は敢えて厳しい意見を言うようになっていた。
 やがて松岡は会計事務所の本社へ異動となり、1年近く経った時、社長に呼ばれた。それは社長命令だった。「大連にイタリア料理店を出店させる。視察に行って来い」。大連にも事務所があったことから、料理店を介してコンサルタントの業務にもつなげたい、との狙いもあった。
 突然降ってきた大連。松岡はどこにあるのかも知らなかった。2011年(平成23)2月、松岡は3泊4日の日程で初めて大連を訪れたのだった。大連事務所の中国人同僚とともに、市場や日本食店を回って調査した。帰国して社長に報告して、こう聞かれた。「本当にやる気はあるか、大丈夫か」。松岡は迷っていた。言葉は通じず、文化、習慣も分からない。自信もなかった。しかし、自らが切り盛りできるお店は長年の夢だった。心とは裏腹に「やります!」と返事をしていた。
 その翌月、松岡は大連を再び訪れ、店の物件探しを始めた。地図とボールペンを持って、市内のいたるところを見て回ったが、納得できる物件は見つからない。やがて社長から厳命がきた。「7月まで店が決まらなければ帰国しろ」。ここで夢を諦めるわけにはいかない。松岡は2物件の候補から西崗区黄河路の保聨酒店1階を選び、契約を交わした。

チャンスをくれた社長やお客、スタッフに感謝

 「何でこの場所に店を出したのか」。当初はお客からこんな声が聞こえてきた。近くに日系の飲食店はなく、ローカルな地区に「AMORE」だけが店を構えている。しかし、2年近く経ったいま、そんな声を聞くことはなく、松岡の手料理を求めて来る常連客が増えてきた。
 そこには様々な店で修業してきた松岡の腕と強い信念がある。食材の衛生、安全性に最大限の注意を払い、自らが納得した食材だけを仕入れる。さらには素材のうまさを引き出す丁寧な調理。松岡が作り出すイタリアンの評判はこの2年で高まってきた。しかし、来年7月には店の契約が切れ、間もなく選択を迫られることになる。
 「チャンスを与えてくれた社長に対する感謝の気持ちを忘れることはできない。その思いに応えるためにも、この大連で頑張り、できるならば店を継続させたい。まだまだこの大連でやることはたくさんある」
 35歳で人生の岐路に立つ松岡だが、この地でずっと暮らしたいと思うようになった。それは人の繋がりに大切なものを見出したからだ。
 松岡に期待をかける社長、そしてお客には日本では接することのできない大先輩たちが松岡を励ましてくれる。また、ホール担当がいないことからと、中国人の友人がアルバイトで手伝ってくれる。人間関係に励まされ、助けられてきた大連の2年間。松岡は迷いながらも次のステップを駆け上がろうとしている。

この投稿は 2013年6月14日 金曜日 3:14 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2013-06-14
更新日: 2013-06-14
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