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第38話 浜井 識安 物語

目標に向かって歩む浜井識安さん

大山総裁と極真会館(松井派)中部本部長を務める弟良朗(左)

大連の総本部で稽古をつける浜井さん

右の4冊は著書と浜井さんを紹介した本。左の作業シートと黄色のカードは、浜井さんが考案した自己啓発アイテム

武道精神の極みを目指し

空手と人生の師と仰ぐ大山総裁

 「押忍(おっす)!」「ありがとうございました!」。広い道場に歯切れの良いかけ声が響き渡る。ここは天津街修竹大厦2階の国際空手道連盟極真会館浜井派道場。凛とした空気に包まれ、気迫の稽古が続く。その弟子たちの間を回り、型を指導するのが財団法人極真奨学会理事で極真会館浜井派代表の浜井識安。国際空手道連盟総裁だった大山倍達の直弟子であり、日本の空手界を牽引するひとりである。
 「武道文明は日本が世界に誇るべき精神文化。この武道精神を体現できる人間を育てたい」。武道に身を投じて半世紀。 浜井の想いは揺るぎない信念となって、異国の中国で〝空手道〟の技と心を説く。だが、その想いはいまだ過程にあり、浜井はさらなる極みを目指す。

柔道から空手に転身させた先輩のしごき

 浜井は1954年(昭和29)2月、能登半島のほぼ中央に位置する石川県七尾市に生まれた。この年に自衛隊が発足し、第1回モーターショーも始まるなど、終戦から9年が過ぎた日本は、経済成長へのステップを上る高揚期にあった。しかし、七尾西湾と七尾南湾を挟んで能登島を抱き込むように続く七尾は、自然豊かで昔ながらの漁業と温泉の街として、のどかな雰囲気をたたえていた。
 一家は紳士洋服店を営む父喜一と母洋子、そして長男の浜井、弟良朗、妹ますみの5人。浜井はだれの影響を受けたのか、幼いころから強いものへの憧れを強烈に持っていた。小学校4年生の時に、地元警察の柔道場へ通い始めたのが格闘技家への第一歩だった。やがて茶帯を取得し、相手と向かい合う強い心と技に磨きをかけていった。
 しかし、格闘技としての柔道の限界を思い知らされた出来事があった。中学校に進学して間もない時だった。「お前、強いらしいじゃないか」と上級生6人に図書館へ連れ込まれ、ボコボコに殴られた。浜井は1対1で戦う柔道で鍛えてきただけに、6人を相手に戦う術はなかった。やられるだけやられるだけのサウンドバッグ状態。翌日は包帯をぐるぐる巻きにして登校したものだった。
 「多人数相手でも戦える武術を」と、空手の本を買い込んで自己流で型を学び始めた。このころに読んだ本の1冊が大山倍達の「世界ケンカ旅行」(ワニブックス)だった。空手技を頼りにアメリカに渡った大山のケンカ武勇伝である。「こんなにすごい人生があるんだ!大学に入ったら絶対にこの人に空手を教えてもらう」。浜井はすでに中学生の時から大山を師と決めていた。
 高校は県内でも有数の進学校の県立七尾高校に入学。空手部がなかったため、浜井は柔道部に入ったが、2年生になって大谷大学空手部出身の教師、元平恒昭が転任してきた。大谷を顧問とする空手同好会が発足し、浜井は柔道部を退部して大谷に師事することになった。元平は大学で鍛えただけに本格的な空手の技を身につけ、浜井は水を得た魚のように週2、3回の稽古に打ち込んだ。しかし、大山の極真会空手とは流派が異なる松濤館空手だった。
 空手とともに自己啓発の術も習得し始めていた。大きな影響を受けたのがクラウド・ブリストル著の「信念の魔術」(ダイヤモンド社)である。人生の成功と繁栄のための心理学であり、クラウドは「目標を設定しろ」「目標を紙に書け」「目標の期限を設けろ」と説いた。浜井はこれを実践した。「極真空手をやる」「一橋大学に入学する」と紙のカード100枚に書いて、枕元や勉強机の引き出しの中、洗面所、玄関などいたるところで目にふれるようにした。インセンティブを高めるための自己暗示である。

集中型の猛勉強で一橋大学法学部に合格

 極真空手は中学時代からの夢だった。一橋大学は「将来は実業家になりたい」と、東京大学志望から変えた。目標設定した後は、いかに達成への道を歩むかが問題である。浜井はだらだらと勉強はせずに、集中力で立ち向かった。普段は空手もやったが、夏休みや冬休みには勉強に徹した。夏休みは1日11時間、冬休みは1日18時間もぶっ通しで勉強したのである。
 ところが模擬試験では、一橋大学法学部の合格率は25パーセント。進路指導教師は「一橋のみならず、滑り止めの大学も難しいだろう」と宣告した。だが、いざふたを開けてみると、難関の一橋大学法学部をはじめ、受験した7大学全てに合格。一番驚いたのが浜井本人だった。
 入学後、空手部に入部するとともに国際空手道連盟極真会館の池袋総本部に入門した。住んでいた国立から新宿を経由して池袋まで週3回通ったが、入門1週間後にとんでもない〝事件〟を引き起こしてしまった。前年の全日本チャンピオンとなった佐藤勝昭と組手をして、浜井の回し蹴りが偶然、佐藤のあごをとらえ、畳に沈めてしまったのである。
 浜井は入門したものの他流派の松濤館流空手、しかも佐藤とは格違いの若造だった。極真空手のメンツ丸つぶれである。次の稽古日もいつも通り道場へ行ったところ、いつになく殺気立っていた。ロッカーで着替えていたら先輩の鉄拳が飛んできた。道場では先輩たちから稽古という名のシゴキが延々と続いたのである。
 その後も道場に通い続けた浜井にチャンスが巡ってきた。大山から直接指導を受けことができ、その温かな人間性に惚れ込んだ。浜井18歳、大山51歳。特に大山は精神指導に長けていた。「キミ、大海を泳ぐクジラか、小川を泳ぐメダカのどっちになりたいのか。同じ泳ぐならば海に出なさい」。大きな舞台を目指せ、との教えである。心技体のバランスを育まれた浜井は力をつけ、得意技の前蹴りと後ろ蹴りに磨きをかけた。2年生の1973年(昭和48)11月に行われた第5回全日本空手道選手権大会では茶帯で6位に入賞、「極真空手の浜井」を全国に知らしめたのだった。
 空手の一方で授業も真面目に出席して教養課程の単位を取得。3年に上がったとき、「実業家を目指すには法学部では意味がない」と商学部に転部し、会計学の森田哲弥ゼミに入った。しかし、間もなく両親が離婚したため、浜井は休学して土木作業やバーテンなどのアルバイトに精を出し、ついには家業の経営が左前になった紳士服店を継ぐため七尾に帰省したのである。借金は9000万円を超えていた。

日本を代表する武道家を育てた金沢時代

 家業とともに週1回のゼミにも夜行列車に乗って七尾から通い続けた。こうして浜井は1980年(昭和55)3月、8年間かけて一橋大学商学部を卒業したのである。もちろん空手も続けた。1977年(昭和52)5月、一般を対象にした空手同好会を七尾公民館に開設したが、流派は元平の松濤館空手だった。その時の受講生の1人の言葉が浜井の心を打った。「極真空手の浜井さんがなぜ松濤館空手なのですか。極真空手を教えてください」。
 浜井は上京して大山に極真会館石川支部の設立を直訴した。しかし、支部長は黒帯と決まっていたが、浜井はいまだ茶帯だった。浜井をしっかりと記憶していた大山は、「わかった。明日からキミは黒帯だ」。石川支部開設と支部長就任が決まった瞬間だった。
 2年後の1979年(昭和54)に自宅ビルを売却して借金苦から開放された浜井。七尾から県都の金沢に出て道場を開き、翌年には金沢市内に2階建ての道場兼自宅を建設した。極真空手ブームもあり、入門者は増え続ける一方だった。支部も続々と誕生し、石川県内だけで40支部もできた。浜井は空手の普及と強豪選手の育成のため、弟子を育てて支部長に任命したのである。これも大山の教えだった。浜井は指導者としても手腕を振るい、後にオープントーナメントの全日本選手権や世界選手権で活躍した増田章や水口敏夫ら日本を代表する武道家を輩出したのである。
 人生の転機が訪れたのは1983年(昭和53)。出会ってから10年経った良好(ようこ)と結婚し、これを機にレンタルビデオの会社を立ち上げた。良好は北里薬科大学を卒業し、東京で働いていたことから遠距離交際を続けていた。良好は4歳下で当時のアイドル歌手、南沙織に似た美人。浜井の一目惚れだった。子どもは29歳から17歳までの娘4人。「男の子に空手をやらせたい」と産んだが、誕生したのは女の子ばかりだった。
 事業は順調だった。レンタルビデオの店は北陸を中心に35店舗に増え、年商は35億円にも達した。しかし、バブル崩壊とともに時代はビデオからDVDへと移行していた。ジワジワと業績は落ち、不動産取得のローンも重くのしかかる。ついに借金が45億円にも達していた。良好の実家からも借金し、その家まで抵当に入れた。1人悩む浜井。強じんな格闘技家も「自殺したい」と心が折れた。2004年(平成16)に大手レンタルビデオ会社に会社を売却、20年にわたる実業界から身を引いたのである。

中国の弟子たちに伝える礼節と和の精神

 その後3年間は海外旅行や釣り、ゴルフの気ままな生活を送り、上海や大連にも何度か訪れた。上海では極真連合会がすでに道場14か所を開設していた。だが、大連に空手道場はなく、当時は大連―富山の直行便も飛んでいた。しかも人口は700万人の大都市。潜在的な空手道場の需要を感じ取っていた。財団法人極真奨学会理事に就任した半年後の2007年(平成19)4月、浜井はついに大連市内に道場を開設したのである。
 いまは総本部のほかに開発区と緑波路、ハイテクパークの3支部、さらに昨年11月に北京道場を立ち上げた。弟子は総勢300人。日本人やロシア人もいるが、ほとんどが中国人。浜井は弟子たちに持論を諭す。「武術は勝つためには手段を選ばない。武道は礼節を重んじる和の精神。戦いにも秩序がある」。中国人の弟子たちも日本語で「道場訓」を唱和し、厳しい稽古とともにその精神を懸命に習得している。この6年で浜井は13人の黒帯を育て上げた。
 中国で夢を形にしてきた浜井だが、人生設計はまだ途上にある。その目標は、浜井派の拠点を東京に設け、浜井派の全日本大会を開催することである。北陸では勢力を誇る浜井派だが、念願の東京進出はどうしても果たしたい課題である。実現目標は3年後と定めた。
 「大連をはじめとする中国は、中国人の後継者を育ててトップに据え、中国人によって武道文明を根付かせたい。私は東京で夢を叶える」。目標を定め、着実に人生を歩んできた浜井。次に向かう道は決まった。

この投稿は 2013年4月17日 水曜日 7:54 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

コメント / トラックバック2件

  1. オス!大連の極真空手道場で稽古させていただいていた笠原です。もし、浜井師範がこのメッセージを見ているのであれば、伝えておきたいことが、あります。お久しぶりです!日本に帰る前に名刺をもらったのですが、なくしてしまい、連絡出来ないでいました。すみません。名刺をもらった時に東京で道場を作ると聞いたのですが、浜井派の道場は都心か地方にしかなく、空手をやるきっかけができず、やれずにいました。なので、道場を作るのであれば、応援します。非常に図々しいのですが、道場を作るのであれば、東京の八王子付近もしくは高尾に作ってもらえればありがたいです。久しぶりながら申し訳ありません。よろしくお願いいたします。オス!

    • 慶次郎 より:

      笠原さん、
       コメント有り難うございます。お返事が遅れて申し訳ないです。

       できる限りとなりますが、私からお伝えしようと思います。

       今後とも大連ローカルをよろしくお願いします。
       

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掲載日: 2013-04-17
更新日: 2013-04-18
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