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第37話 香川 慎二 物語

世界各国で羽ばたいてきた香川慎二さん

DELLのミーティングがマレーシアで開かれた時の食事会

GE大連の開設式で

カリフォルニアの学校で開かれた表彰式

祖父母の想い胸に米中で歩む人生

基本と自然がライフキーワード

 被爆三世。父方の祖父母は被爆し、祖父を亡くした。祖母も心に深い傷を負った。アメリカによって悲しみの渕に突き落とされた一家。その一方ではジーンズをはき、ロックに夢中になった。憎悪と憧れ――香川慎二の歩んできた人生は〝アメリカ〟が絶えず作用してきた。
 だが、もうひとつのインパクトがあった。中国である。母方の祖父母は戦前、戦後の激動期を旧満州(現在の東北地方)で過ごし、香川の深層心理に〝中国〟が刻み込まれていた。「私の人生は成るべくして成ってきたのかも知れない」。いま、大連の外資系IT企業でマネージャーとして勤務する香川は、祖父母たちの想いを受け止め、自らの人生を振り返り、前を見つめる。

思春期を育んだ理科とテニスとバンド

 日米安全保障条約を巡って世の中は騒然となっていた。市中では締結反対デモが全国各地で活発化し、国会では自民党の強行採決によって警官隊が導入する騒ぎとなった。まだ戦後が終わっていない1960年(昭和35)のことである。香川慎二はこの年の4月、広島市で生まれた。
 父、幸雄はNHKの放送記者、母、昌子は幼稚園の代用教員だった。幸雄は全国の放送局を転々とする転勤族だったため、一家は香川が3歳の時に山口市へ移り住んだ。香川の記憶はこの山口時代に始まる。どちらかと言うと内向的な性格だった香川。テレビや時計などを分解して構造を調べ、鉱石図鑑で見つけてきた鉱物の名前や成分、分類を知ることに熱中した。
 小学4年生の時、幸雄が東京のNHKに転勤となり、中野区上鷺宮に転居した。香川は転校生の悲哀を味わった。「じゃぁ」をつける山口弁をなじられ、下手な野球をバカにもされた。だが、それも時間が解決してくれた。鉱物に始まった理科好きは相変わらずで、地元中学校に進んでからは理科部長を務め、運動部ではテニス部に所属した。と同時にロックバンドにも夢中になり、同級生とバンド「香典返し」を編成、ベースを担当した。髪の毛は肩まで伸ばし、ハサミを手にした教頭に追いかけられたものだった。理科とテニス、バンドが思春期の香川の性格や感性を育んで行った。
 中学3年の夏、一家は北海道室蘭に引っ越した。今度は〝憧れの転校生〟となっていた。きれいな東京弁を話し、都会的なセンスが女子生徒たちをひき付けた。教室に座っていると、他のクラスから女子生徒がドアを少し開けてのぞき見る。顔だけが3つも4つも縦に並んだ。翌年のバレンタインデーにはチョコレートが100個も集まった。「3か月後には北海道弁になっていたし、注目を集めたのは最初の年だけ」と香川。
 高校は北海道室蘭清水丘高校に進学し、クラブ活動は「日本人として武道を」と剣道部に入部。香川は浜辺で稽古する「浜練」が好きだった。竹刀を振っていると、目の前をトドやアザラシが泳ぎ、クジラの潮吹きや飛び跳ねるイルカも見える。北海道の大自然を実感することができたのだった。一方ではバンドも再開した。他校の生徒が「バンドを一緒にやろう」と突然やってきて、「サハラ」を結成。地元のライブハウスで「安全地帯」の前座をつとめるほどの力量だった。

祖母の背中に見た心の傷の深さ

 高校3年の夏、幸雄は岡山放送局へ転勤となり、香川も岡山市の県立芳泉高校に転校。再び〝土掘り〟が始まった。寺跡などを巡ったり、江戸時代の埋立地だった自宅近くの川沿いを歩いたりして陶磁器の破片を掘り探した。無釉陶器の須恵器や備前、唐物などが出てきて、時空を超えた遥か遠い時代へと思いを馳せた。
 転校半年後に迎えた大学受験。獣医を目指して受験するも失敗し、浪人生活を送ることにした。香川はここで初めて家族と別れ、父方の祖母、ヨシエと叔母の美代子が住む京都に移り住んだ。予備校に入ったが、勉強よりもアルバイトに精を出した。予備校近くの古道具屋で店番したり、取りたての運転免許証で当時、始まったばかりの宅急便で集荷と配送をしたりもした。
 そのころ、香川の瞼にひとつのシーンが強烈に焼き付いている。それは汗が滴り落ちるほどの暑い日だった。ヨシエが裏庭で小さな丸い背中を向けて何やら作業をしている。「おばぁは何をしているのだろうか」と見ていると、綺麗な花を咲かせた夾竹桃の太い幹を小さなノコギリで切り倒そうとしていた。ヨシエにとって、夾竹桃の花はあの原爆を思い出させる悲しい象徴だったのだ。
 1945年(昭和20)8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下された。当時、広島市内で暮らしていた祖父母も被爆し、建設会社の広島支店長だった祖父、新一は爆心地から400メートルのところで命を果てた。ヨシエは爆心地から2キロの自宅で被災した。その日は朝から暑い日だった。ヨシエと美代子は涼しい天井裏で休んでいた。その時、爆風で自宅は倒壊したが、屋根の梁がつくった隙間で一命を取り留めた。ヨシエは爆心地近くまで通い、夫の新一を探し続けて二次被爆者となった。
 「おばぁ、原爆のことを聞かせてよ」。幼いころから香川がこう尋ねても、ヨシエは一切語ろうとしなかった。原爆後に初めて咲いた夾竹桃の花。ヨシエにとって、夾竹桃の花は地獄絵を思い起こさせる心の傷みでもあった。香川はヨシエの小さな丸い背中に、傷の深さと重さを知った。
 1年後の大学受験では獣医学部の学校に失敗し、東京にある私立大学の農獣医学部に入った。1979年(昭和54)年春だった。大学4年間はバンドを組んで、夜は下北沢などのライブハウスで演奏し、朝はライブハウスから造林研究室に通う生活を続けた。研究テーマは熱帯雨林の植物生育。夏と冬の休みには群馬県みなかみ町にある大学演習林に泊まり込んでブナ林の生態育成の研究に取り組んだ。山から採ってきた木の実や山菜、そして湖で釣った魚がおかずとなった。

人生観を大きく変えたアメリカ時代

 そろそろ就職活動を、と思っていた時に人生の分岐点とも言える出来事があった。大学の就職課に張り出されていた1枚のポスターを前に動けなくなってしまった。それはアメリカ農業研修の募集ポスターだった。原爆を投下した国であり、文化に憧れた国でもあった。「いったいどういう国なのか。ここで行かなければ一生知ることはできないだろう」と、アメリカ研修を決意した。卒業後の1年間は日本国内で事前研修を受け、1984年(昭和59)4月6日、念願のアメリカ本土に下り立った。
農業研修は2年間で、ワシントンやカリフォルニアのリンゴ園や米づくり農家で農業技術を学んだ。全くダメだった英語も流暢にこなせるようになっていた。このアメリカ滞在は香川の人生観を大きく変えさせた。合理的な農業経営は、コスト軽減によって安い商品を生み出すなど社会的貢献の大きさを知り、農業経営が大統領に次ぐ子どもたちの夢の職業であることも驚きだった。
 帰国後はリクルートに入社して旅行部門を担当し、1989年(平成元)にはアメリカンエキスプレス日本支社に転職。クォリティ部門に在籍し、日本初となるコード隠ぺい式クレジットカードの開発や、スーパーバイザーとして業務改善プロジェクトを手がけ、業務効率化のプロとして手腕を発揮した。世界的規模の業務改善にも携わった。世界を3地域に分けてITセンターとオペレーションセンター、経理センターを開設、日本支社の経理部門はインド、カード発行のプロセスはイギリスへと移管することになった。香川は日本の責任者としてアメリカ、イギリス、インドを行き来して経理プロセスをニューデリーに移管させ、その後はオーストラリアに転勤、カード部門のマネージャーに就任した。
 移管業務が軌道に乗った入社10年後、新天地を求めてGEジャパンに転職。香川は大阪のクォリティ部門に所属、アメリカ出張でシックスシグマを学ぶなど、管理職トレーニングや改善プロジェクトのプロフェッショナルとしての階段を上り詰めて行った。そんな香川に中国行きが命じられた。GEが大連でBPO業務をスタートさせることになり、移管業務や海外業務に精通した香川に白羽の矢が立った。香川は巡り来る因縁を感じざるを得なかった。中国東北地方は母方の祖父母、儀三郎とシナヨ夫婦が暮らしたゆかりの地だった。料理人の儀三郎は吉林市で料亭をはじめ、その後は満鉄の調理人として長春市で働き、さらに移動で朝陽市に移り住み、終戦2年後の1947年(昭和22)に胡芦島から広島へと引き揚げてきたのである。

祖父母の暮らした地で手腕を発揮

 GE大連を立ち上げたのは2000年(平成12)。現在は中国全土に約3500人のスタッフを抱えているが、当時は森茂ビルで7人のスタートだった。主な業務はコールセンターで、300人ほどの体制が確立した2年後、香川はGEジャパンに呼び戻されオペレーションセンターに配属になった。そんな時、アメリカ人からヘッドハンターの声がかかった。その企業はDELLだった。能力を買われての転職は欧米系企業にとって日常茶飯事である。香川も階段を上るべくDELLに転身、富士通製品を運ぶ運輸本部長に就任した。
 そこへ再び大連転勤の話が舞い込んできた。職務はカスタマーサポートのディレクター。部下は300人以上もいて不安もあったが、コールセンターへの信念と経験、職場の雰囲気づくりへの自信に揺らぎはなかった。CEマーキング(自己宣伝、認証)は88.9%を達成し、忙しくも充実した日々だった。しかし、後に異動してきた上司と折り合わず、退社する決意をした。
 大連の風土は香川のライフスタイルに似合う。釣りや野外活動ができる環境がすぐ近くにあるし、二胡や沖縄の楽器「三線」を楽しみ、気の会う仲間もたくさんいる。この地で暮らすことにこだわり、浪人生活を送ったことも、日系企業に勤めたこともあった。そして昨年7月には大連の外資系企業に入社し、プロセス管理やカスタマサービスのマネージャーとしてこれまでの経験を発揮している。
 香川にはGE時代に培った信念がある。「management by fact」――仕事は正しい方法で正しくやる。当たり前のことを貫くことの難しさを言い表した言葉である。さらに自らをこう戒める。「人間は自然に生かされていなければならない」。基本と自然。これが香川のライフキーワードである。「これからの人生は自分のためではつまらない。壊された日本の川に恩返しをするため、いずれは川の再生プロジェクト活動に参加したい」。
 日本からアメリカや中国をはじめとする世界各国を舞台に羽ばたいてきた香川。回帰を目指す針路が見えてきた。

この投稿は 2013年3月6日 水曜日 2:29 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2013-03-06
更新日: 2013-03-09
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