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第33話 松岡 泉路 物語

〝無〟からの挑戦に意欲を燃やす松岡泉路さん

〝無〟からの挑戦に意欲を燃やす松岡泉路さん

中国人経営者に託す夢に向かって

中国ビジネスを成功に導く手腕

  商社マンとして世界70か国以上を回り、数々の大型ビジネスを手がけてきた松岡泉路(まつおか・せんじ)。その経験と手腕は大連でも存分に発揮されてきた。友人と共同で立ち上げたレストランを繁盛店に育て上げ、数多くの企業の顧問となって各分野のビジネスを成功へと導いてきた。その松岡が淡々と語る。
 「振り返れば商社マンとして突っ走ってきた人生。それも枠にとらわれずにゼロから生み出す仕事に生き甲斐を感じてきた。いま、その思いを中国の友人が経営する会社に投影し、協力させていただいている。設立間もないこの会社が、大成功を収めることが私の夢でもある」
 松岡の歩んできた道のりは決して平坦ではなかった。大病を患ったこともあれば、独学で受験に挑んだこともある。ビジネスも〝無〟からつくり上げてきた。松岡は挑戦することへ人生の執念を燃やす。

震え上がった軍事教練師範上がりの父

  終戦からわずか2年後の1947年(昭和22)6月、松岡は東京都国立市に生まれ、幼稚園の時に横浜市の保土ヶ谷に転居した。家族は父、道郎と母、テル、そして6歳下の弟、成男の4人。4歳下の妹は幼くして病死した。当時の保土ヶ谷はなだらかな丘陵が続き、海も近くにあり、自然環境に恵まれていた。まだ牧歌的な雰囲気に包まれ、松岡は近くの山を駆け巡り、果樹園の果物を盗み取っては食べていた。
 典型的ないたずら坊主だったが、家ではおとなしい子どもでいた。父がめっぽう恐かったからだった。怒る前にビンタが飛んできた。兄弟喧嘩をしても、叩かれるのは松岡だった。父は旧陸軍の軍事教練師範で、銃剣術の達人であり、かまぼこの小さな板を鉄拳で割ることぐらいは朝飯前。そんな父を前にすると松岡は震え上がるのだった。しかし、外ではガキ大将。小学校に上がってからは通学カバンを持って登校したことはない。同級生の子分に持たせていたのである。
 授業はまともに聞いたことがない。じっとしていると体が熱くなってきて、動き回らずにはいられなくなってしまう。担任に何度も注意されたが直らない。当然、成績は5段階でオール1、内申も最悪だった。小学生時代は、そんな落ちこぼれ状態が続いていた。しかし、保土ヶ谷中学校に進学してから松岡の素行を変えさせる出来事が起きた。
 中学2年生に進級して間もなくのことだった。いつも自転車で上っていた坂道が急に上れなくなってしまった。体力がなくなり、疲れもひどい。病院での診断は腎臓病だった。腎臓を支える腰の骨が弱く、激しい運動によって腎臓が体内で揺れ、タンパクと赤血球が極端に出てしまっていた。医師は「腎臓をひとつ摘出しなければ治らない」と手術を勧めたが、松岡はこれに抵抗した。入院していた大人が手術後、痛くて泣いているのを目の当たりにして恐怖感に襲われたのである。
 この松岡を支えてくれたのが、何よりも恐かった父だった。「わかった、オレが治してやる」と、病院を変えて通院させるとともに食事療法が始まった。家族の料理は母が作ったが、松岡の食事は全て父の手づくりだった。腎臓病の食事療法を調べ、松岡に薬草を煎じて飲ませ、体力をつけさせるために脂っこいものを食べさせた。顕微鏡とフラスコまで買ってタンパクや赤血球の数値を分析するほど徹底ぶりだった。何と1年後にはタンパクも赤血球も出なくなり、完治していた。父の執念が松岡を救ったのである。「医者も驚くほどの回復だった。これほど父の愛情を感じたことはなかった」。わんぱく坊主の面影は消えていた。

恩師も「嘘だろう」と疑った大学合格

  成績は相変わらず良くない。担任が勧めた高校は大学進学が絶望的な私立校だった。どうしても大学へ進みたかった松岡は、高校進学を諦めて大検挑戦への道を選択した。教育には全く関心のなかった両親が反対することはなかった。父が経営する生糸業は〝ガチャマン時代〟と言われ、ガチャンと織機を動かせば1万円を稼げた、と比喩されるほどの好景気。しかし、独立志向の強い松岡は、「自分の力で大学へ行く」と決心し、アルバイトをしながら図書館に通って独学で大検受験に取り組んだ。
 4年後に大検に合格して入学試験に挑戦した。受験したのは当時の国立一期校である大阪大学の東アジア史。4年間の猛勉強が実を結んで合格したのである。これには周囲が驚いた。小学校の恩師は「嘘だろう」と信じようとはしなかった。集団の中では苦手だった勉強も、自分の世界で自分の方法で切り拓いて行ったのである。
 大学4年間は大阪市東住吉区にあった叔父の家に下宿した。折しも学生運動が全盛のころで、大学はロックアウトが続いて休講ばかり。ノンポリの松岡はデモで気勢を上げる学生たちを横目に、アルバイトに精を出した。喫茶店やスナックの店員、競馬場の整理係、警備、家庭教師など、何でもやった。単位の取得は論文だけで、ほとんど大学に行かずに卒業を迎えた。
 就職先は、自分の性格を冷静に分析して消去法で選んだ。銀行は「ポケットに現金を入れてしまいそう」なので除外、単調なメーカーも向いていない、結局、残ったのは、競争率の高かった商社、それも学生に人気ナンバー・ワンの伊藤忠。入社試験にはものすごい数の学生が受けたが、松岡は合格した。「きっと成績だけで選ばれたのではないだろう。伊藤忠の自由なカラーに合っていたのかも知れない」と振り返る。
 伊藤忠への入社が決まって一番喜んだのが父だった。生糸業を営んでいただけに、繊維に強い伊藤忠に対して畏敬の念を抱いていたのである。松岡が入学した大阪大学は、何度言っても覚えなかったが、松岡が入社した伊藤忠の名前だけは一発で覚えた。「すげえ!」。松岡の姿が心強く思えたに違いない。松岡が入社した1971年(昭和46)の初任給は5万円で、ボーナスは何と14か月も出た。一般の上場会社の2倍の基本給だった。

巨大事業も手がけた商社マン時代

  入社後に配属されたのは大阪本社の繊維部。欧米向けのニットスーツなどを輸出する業務を担当し、2年目になって東京本社へ転勤となった。以後、松岡は両本社間だけの異動で、130か所ある支店に一度も赴任したことはない。伊藤忠の中でも地方勤務のない松岡は異例の存在である。東京本社では物流部に配属され、船や飛行機による国内外や三国間の物流を担当。これがその後の松岡の原点となった。
 7年間勤務してから物流部に所属しながら新規事業開発室へ出向となり、各部から集められた7人で新規事業に取り組むことになった。松岡は31歳の時である。ここでは、法律違反をしなければ何をやっても良かった。「メイビス株式会社」を設立して、7人がそれぞれ儲かる事業を手当り次第にやった。携帯電話のドコモショップ経営からペットフードや健康食品の深海ザメ、ブラウスの販売、普及し始めていたワープロも扱った。
 松岡が取り組んだのは映像事業。映画やテレビドラマの制作に加わったり、企業紹介のビデオ、英会話教材の映像版の制作もしたりした。メイビスには4年間在籍したが、7人でスタートした会社は社員150人に増え、年商は73億円にまでなった。この新会社の実績が評価され、松岡は課長代理として東京本社物流部に戻ったのである。その後は課長役、部長補、部長役へと昇進していった。
 主に担当したのがプラント主体の物流。メーカーの製造ラインや自動車などを分解して輸送し、現地で組み立てる。国内外のビックプロジェクトを手がけた松岡が、今でも悔しい思い出として残る商戦があった。それは北方領土に発電プラントを建設する事業で、国内の大手商社がODA(政府開発援助)入札に参加した。外務省の内示では伊藤忠の入札価格が最も安かった。「取れた!」と思って喜んだのも束の間。翌日の新聞には競争相手の商社が落札した記事が載っていた。発電プラントが完成した後、この入札に関する贈収賄事件が発覚し、関係商社や外務省の役人、そして有力政治家が逮捕されたのである。
 一方で松岡は1990年代後半から、中国とのかかわりを深めて行った。伊藤忠はモンゴルへのODAの大半の商権をとり、プラント建設や銅鉱石の物流業務に取り組み、頻繁に北京を経由してモンゴル入りした。また、マツダや川重の海南島工場、富士重工の貴州工場の物流も手がけてきた。こうして2007年に定年退職を迎え、36年間に及ぶ商社マンとしての生活に終止符がうたれた。
 「商社マンはひとつの商品を専門的に扱う人が多く、タマネギ課に所属した人はタマネギばかりを扱う人生。その点、本社の人間としていろいろな仕事を経験し、私は非常にラッキーだった」

「夢を叶えたい」と大病後に再び大連へ

 定年退職1年前には、カニの輸入事業をしていた友人とレストラン「大連蟹漁師家」を開店させ、退職後は董事・副総経理として経営に携わってきた。松岡の経験と人脈に支援を求める企業は多く、一時は10社もの顧問を務めていた。しかし、いまは人気店に育て上げた「蟹漁師家」も引退し、工場やオフィスビルなどの社員食堂の運営・管理を受託する洁成(大連)餐飲管理服務有限公司だけの顧問に絞ってサポートする。洁成総経理の張学軍とは6年ほど前からの友人で、張が三菱商事に勤務していたこともあって、商社マン同士としてウマが合った。その張が2008年(平成20)4月に現在の会社を立ち上げ、「先生、助けていただきたい」という求めに応じて顧問に就任したのである。

洁成社員との記念写真

洁成社員との記念写真

 だが、松岡は昨年末、死亡率が約50%以上と言われる敗血病を患い、生死をさまよった。たまたま妻の勝美が大連に遊びにきていたため、つきっきりで看病してくれた。1週間後に日本へ緊急帰国して5か月間の闘病生活を送ったが、「大連に戻りたい」と言う気持ちが抑えきれなくなっていた。勝美も医者も諦め、松岡の言う通りにした。こうして今年5月、退院と同時に再び大連へ戻ってきた。

退院後の今年5月に旅順の龍王塘で

退院後の今年5月に旅順の龍王塘で

   「1度死んだ人生だけに野望はない。能力があり性格の良い張総経理を手助けしたい。コントラクトフード産業はこれから中国で発展する有望ビジネス。張総経理が大成功を収めることが私の夢だ。松岡は新たな人生の目標に向かい始めた。

信頼し合う張学軍さんと

信頼し合う張学軍さんと

この投稿は 2012年11月15日 木曜日 6:56 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2012-11-15
更新日: 2012-12-19
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