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第27話 野上 徹 物語

充実した大連生活を送る野上徹さん

大連山の会代表として大所帯をまとめ上げる野上さん

テレビドラマに旧日本軍幹部として出演

還暦祝いに文子さんから花束のプレゼント

夫婦で絆を深める充実の大連暮し

笑顔で広がる大連山の会の輪

 大連山の会の代表として100人以上の大所帯をまとめる野上徹。会の運営を引き継いでから仲間は飛躍的に増えた。日本人だけでなく中国人学生も野上を慕って集まり、山好きの輪は国境を超えて広がるばかりだ。
 山行計画や安全のための下見、会員への連絡、事後の写真送付など、煩雑な作業をボランティアでこなす野上。「楽しくて仕方ない」と語る笑顔が仲間たちをひき付ける。そこには人間関係を築き上げながら歩み続けて来た野上の人生の軌跡が映し出されている。「これまで回りの人に支えられて来た。友人たちのおかげ」。野上はこう言って人生を振り返った。

■本家は京都で知られた老舗木材店
 野上は世の中が戦後の混乱から復興への兆しが見え始めた1948年(昭和23)2月、京都市に生まれた。父次郎の実家は代々続く老舗の材木店。全国の山林から原木を切り出し、建設会社に納める納材と製材業を手広く営んでいた。家業は叔父の一郎が継いだため、両親は幼い野上を連れて大阪府箕面市に移転し、木材販売業を立ち上げた。
 この叔父の一郎は日本ラグビー界で知られた人物だった。戦前、早稲田大学に進み、ラグビー部に所属して日本代表メンバーとしても活躍した名プレーヤー。とりわけ一郎のフェアプレーはラグビーファンを魅了し、最高のラガーマンと賞賛された。実直な一郎に対し、父次郎は豪傑で商売上手。野上は父と叔父の姿を見てのびのびと育って行ったのである。
 野上は箕面市の小学校に入学したが、5年生の時に一家は大阪市中央区に引っ越し、野上は市立愛日小学校に転校した。愛日小は大阪の有名校で、船場中学校、追手門高校、京都大学へと進学するのがエリートコースと言われた。が、野上は転校生の悲哀を味わった。「箕面のサル」「田舎者」といじめられ、「中学校は同級生と違う学校に行ってやる」と一念発起し、難関とされた同志社香里中学校・高等学校を目指した。受験勉強に集中できたのは母美禰尾のユニークな励ましも大きかった。「勉強を1年間頑張るのと、受験のために10年間頑張り続けるのと、どちらが良い?」。
 晴れて志望校に合格した野上は、音楽教諭から声変わりしていないボーイソプラノの声を見込まれて男声合唱団に引っ張られ、中学、高校の6年間を音楽とともに過ごした。今もマニアともいえるほどのオーディオ好きになったのはこのころで、特に映画館で聴く音楽は究極の音響だった。広い空間、大きな熱量。音が飛んでくるほどの大迫力で迫ってくる。エンディングのタイトル、キャスティングと一緒に流れてくるジャズは、映画のストーリーを遥かに超えて野上の胸に迫って来た。聴くだけにはとどまらず、ジャンクものをあさって、アンプやスピーカーを作るのが何よりの楽しみとなっていた。

■大学時代は関西フォーク界のリーダー
 大学は「アンプをつくりたい」と、関西大学工学部電気科に入学した。オーディオづくりは続けたが、ベイシック言語のコンピューター授業に興味を持てず、流行していたアメリカンフォークに傾倒してアメリカンバンドのブラザースフォアやPPMなどの曲を仲間とコピーして歌っていた。やがて野上は関西フォークソング連盟の初代理事長となり、コンサートを仕切り、ラジオの深夜番組でアマチュアバンド紹介のコーナーも担当。関西フォーク界のリーダー的存在になっていた。
 大学4年間は学生運動で学校が吹き荒れた学生運度でロックアウトされたこともあり、ほとんど授業に出なかった。しかし、助けてくれたのは同級生たちだった。代弁やレポート提出をしてくれ、1970年(昭和45)3月、無事に卒業した。この年には大阪万博が開かれ、史上最高の人出を記録するなどにぎわったが、父次郎はこの大舞台でも商才を発揮した。各国パビリオンの木材を卸し、カナダ館の解体で発生した集成材を独自のルートで転売、羽振りの良いビジネスを展開していたのである。
 野上は次郎が経営する「野上木材店」の跡継ぎだったが、卒業後は修業として大阪のゼネコンに入社。現場で木材の種類や施工方法を学び、さらには職人の使い方、付き合い方も習得するのが目的だった。将来の木材店の経営者としての〝帝王学教育〟でもあった。しかし、野上に困った弱点があった。高所恐怖症である。住宅公団の作業用足場の上で動けなくなり、鳶の親方が「ボン、何やってるの?」と気づき、野上を救出してくれたことも懐かしい思い出だ。そんな野上がいま、山の頂上を目指す「大連山の会」の代表をしているのも不思議な縁ともいえる。
 その1年後、野上は次郎が設立した野上木材店の施工会社である有限会社NSに呼び戻され、木工事施工を担当。さらに1年半後には野上木材店とNSを合併させた野上木材工業株式会社が発足、野上は常務として施工部門の総責任者となった。設備投資主導型の第一次高度経済成長期から安定成長期へと移行する1973年(昭和48)のことだった。

■周囲の協力で難局を乗り越えた社長時代
 主に住宅公団の木工事を請け負い、多くの戸数をこなした。景気は鈍化して倒産する同業者も少なくなかったが、野上木材は経営状況が良かったため持ちこたえていた。しかし、野上が31歳の時、一度も怒られたことのない父次郎が他界し、経営者としても慕っていた大黒柱を失った。だが、いつまでも失意に打ちひしがれてはいられない。厳しい会社経営の現実が目前にあった。次郎が逝ったあとの3年間は母美禰尾が社長を務め、野上が35歳の時に社長に就任した。
 毎月の売上げは最低でも3500万円を確保しなければならず、受注獲得に奔走した。もっとも、納材から施工まで一貫して請け負う建設会社はなかったことから、仕事は比較的順調に入り、毎月5000万円の仕事を回していた。野上が苦労したのは職人集めだった。自社職人は30人ほどだが、大きな現場は100人以上が必要になる。絶対数が少なく、同業者間で職人の取り合いが続いていた。「お前のところの職人がまだ来ていないぞ!」と怒鳴りつけるゼネコン担当者。いまも野上はそんな夢を見て目覚めることがある。
 野上が現場に精力を投入できたのは「周囲が支えてくれたから。私の力以上に助けてくれた」と感謝する。叔父が経営陣に入り、工場長も野上の右腕として働き、親戚筋の地元銀行頭取は社外から援護してくれた。しかし、激務が野上の身体を徐々に蝕んでいた。阪神淡路大震災後の住宅需要を見込んで米国住宅の輸入会社を立ち上げ、一方では大手メーカーとタイアップして中国向けにトイレとシャワーの混合栓を開発して売り込む計画だった。中国、米国へと相次いで出張し、帰国してから右手の痛みとしびれに襲われた。すぐさま緊急入院。病名は心筋梗塞だった。
 「起き上がったら死んでしまいますよ」と医者、看護師に言われるほどの病態。動かず寝たままの状態で1週間過ごした。九州で開業していた親戚も駆けつけるなど、野上自身が「もうダメか」と悲観的になるほどだった。1996年(平成8)10月、野上が48歳の時である。だが、バルーン(風船)治療が功を奏して正月には家に戻ることができた。その後、半年間の通院治療が続き、治るまで3年の歳月を費やした。

■趣味と教え子とのふれあいに生き甲斐
 会社は何とか持ちこたえて来たが、すでに激務に耐えられる健康状態ではなかった。徐々に会社業務を整理し、野上が55歳の時に会社をたたんだ。取引先や従業員たちに迷惑をかけずに綺麗な幕引きとなった。こんなところにも、周囲に気遣う〝野上らしさ〟を見ることができる。
 その1年後、母の美禰尾が他界した。失意で何も手につかず、ただぼーっとした生活を送っていた。そんな時、友人から「中国で家具の生産を始めるので管理責任者として手を貸してくれないか」と声がかかった。こうして野上は2005年(平成17)に中国・深圳へ赴任し、月の半分ずつを妻の文子ら家族のいる日本と中国で過ごすようになった。
 その文子は5年前の2007年(平成19)年から大連交通大学へ語学留学。夫婦が同じ中国に暮らしながらも遠く離れた別居生活だった。「1人にしておいたら何をするか心配。日本に帰るか、大連で一緒に暮らすか」。文子に突きつけられた選択だった。野上にとって大連のイメージは「田舎」「寒い」「料理はまずい」とマイナス面が多く、気乗りはしなかったが、結局は押し切られて4年前に大連にやって来た。
 来てみると、懐かしい臭いに感動した。それは石炭の燃える臭いだった。小学校の石炭ストーブを思い出し、故郷に戻ったような居心地の良さを感じ始めた。また、友人となった岡田稔との出会いも印象的だった。岡田は大連山の会を設立したメンバーの1人だが、帰国するため大連山の会の代表を野上に引き継いだのである。当初、野上は岡田流を踏襲したが、「あなたらしい会の運営をしなさい」と岡田のアドバイスから、こまめにメールで情報と好きな写真のスナップを送信し、山以外の京劇鑑賞などサプライズ活動も活発に行う野上流を打ち出したのである。
 山登りのほかにも多趣味な野上。現在は遼寧師範大学で日本語教師を務める文子とともに充実した大連暮らしを送る。学生時代からのアンプ、スピーカーづくりはいまも楽しみのひとつ。陽気が良くなれば日本から持って来た自転車でサイクリングもする。それ以上に人とのつながりを実感できることがうれしい。関西人の野上は東京人に対して少なからずの偏見を持っていたが、「付き合ってみると、江戸っ子もスカッとして気持ちがいい人たち」と気づいた。
 そして、中国の大学生たちとのふれあいは野上夫婦の共通の生き甲斐でもある。野上もかつて大学で講師を務め、コンピューターについて教えていたこともあり、中国人学生の純真な姿に心を打たれる。「老師」と慕われる野上と文子。日本で培った経験とコミュニケーション力が、中国でも夫婦、仲間、教え子たちとの絆を深めさせている。

この投稿は 2012年5月8日 火曜日 10:50 AM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2012-05-08
更新日: 2012-05-08
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