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宮城県大連事務所所長 西村 一慶さん

元気な宮城を中国に伝えたい
その時、死を覚悟した恐怖の瞬間 地元企業は中国マーケットに意欲

 東日本を襲った「3.11」から間もなく1年。惨状は記憶の中に生々しく残っているが、被災地は悲しみを携えながらも復興へと着実に歩みを進めている。今回は震災を体験し、復興業務にも当たって来た宮城県大連事務所所長の西村一慶さんに登場してもらい、当時の模様や今後の展望などについて聞いた。(関連記事は15ページ)

――未曾有の災害となった東日本大震災から間もなく1年が経とうとしています。宮城県も甚大な被害に見舞われましたが、まずは西村さんご自身の「3.11」体験をお聞かせください。

 「昨年3月11日は仙台市にある宮城県庁の16階で業務をしていました。午後2時46分、緊急地震速報とほとんど同時にドーンというものすごい揺れが起こり、その場に立っていられないほどでした。机やキャビネットは倒れ、私たちも床にうずくまって揺れが終わるのを待ち続けました。その間、3分ぐらいだったでしょうか。とにかく長く感じ、いつ揺れが止まるだろうか、死ぬかもしれないと、これまでに経験したことのない恐怖感に襲われました」

――地震から間もなく大津波が襲来し、宮城県を含め東日本の沿岸部の街は壊滅状態となりました。現場の緊迫感は相当なものだったのでしょうね。

 「細かな状況や時間的経過などは、覚えていない、と言うのが正直なところです。大きな地震の後、県庁の15階以上で執務していた職員は、建物の安全点検のため、県庁の外で待機するよう指示が出され、私も県庁から外へ出ました。その間、携帯電話のワンセグから流れてきた津波のニュースで沿岸部の街が根こそぎ波に持って行かれたことを知り、これからどうなるのかとぞっとしました」

――極限の恐怖感の中で、西村さんはどのようなことを考えられたのでしょうか。

 「公務員ですので、こういう時こそ県民の役に立ちたい、自分は何ができるのか、自問自答しました。当時、私の所属は教育庁教職員課でしたので、教職員や児童、生徒の安否、被害状況などの把握に追われましたが、地震発生からしばらくは学校と連絡が取れず、混乱状態が続きました」

――公務員と言っても西村さんご自身も被災者のお一人です。ご家族、ご自宅のことも心配だったでしょうね。

 「妻と連絡が取れずに心配しましたが、当日の深夜にいったん帰宅することができ、妻が無事だったことを確認して、ひとまずは安心しました。しかし、自宅は沿岸部から離れていますので、津波の被害は免れたものの、家の中は家財道具類などが倒壊し、手が付けられないほどメチャクチャの状態でした」

――震災後の復旧、復興業務に当たってきた西村さんが、大連へ赴任されたのは昨年10月でした 。海外勤務にどのような感想をお持ちだったのでしょうか。

 「当初の予定では、もう少し早い時期の赴任となるはずでしたが、震災の影響でずれ込んでしまいました。内示をいただいた段階では、正直に言って驚きました。県庁職員にとって海外勤務は想定外ですし、中国語もできない私が『なぜ中国勤務?』とも思いました。しかし、これも数少ないチャンスです。宮城県の復興、発展に向けて力を尽くしたいと思っています」

――大連の印象はいかがでしょうか。

 「大連は普通に日本料理を食べることができるし、日本語を話せる中国の方も多くいらっしゃいます。そんなことからも外国とは思えぬほど違和感がありません。それに宮城県内企業も大連に数十社進出していますし、宮城県人会にも50人もの方が参加されています。このように経済、人的交流の面でも深い関係にあり、とても親近感を感じています」

―― 宮城県大連事務所の果たすべき役割はどんなことでしょうか。

 「まずは県内企業の中国における経済活動を支援することです。特に震災後は県内企業の海外ニーズが活発化し、昨秋に開催された中日貿易投資展示商談会では予想を上回る12社が出展、中国マーケットへの意欲を実感しました。こうした企業の復興、発展のお役に立ちことは大きな使命だと思っています。また、観光面でも復興の様子を伝え、安全な宮城県に多くの中国人観光客のみなさんを誘客し、相互理解を深めて行くことも重要な業務のひとつです」

――最後に震災から1年が経過したいま、復興への思いをお聞かせください。

 「宮城県も着実に復興への歩みを進め、日本政府に対して民間投資を促進させる復興特区を申請して、新たな郷土づくりに向かっています。多くの企業が入ってくれば、県民の雇用も確保できますし、被災された方が意欲を持ち、宮城県全体が活性化されてきます。こうした元気な姿を中国のみなさんに伝えることも私たちの大切な使命と考えています」

【経歴】
西村 一慶さん

 1963年10月、福島県郡山市生まれ。2歳の時に仙台市に移転してからは同市住まい。1987年に宮城県庁入りし、県税を振り出しに土木、医務、県立大設立準備室、経営経済課、政策課、国際交流課、私学文書室、広報課、教職員課など県業務全般に携わって来た。

【取材を終えて】
培われたバランス感覚

 「公務員として県民の役に立ちたい」。こんな言葉がインタビューの中で何度か出て来た。公衆に広く奉仕する公務員。県職員としての原理原則は自らが大震災を体験し、極限とも言える被災後の悲惨な状況を目の当たりにして来たから、あぶり出されて来たのだろうか。
 いや、それだけではなさそうだ。公務員の業務としての基本でもある税務から経済、政策、広報などを経験し、その幅の広さが公務員としての基本的スタンスを作って来たのかもしれない。バランス感覚――大切な要素のひとつを持ち合わせていることを、短い時間の中で感じ取った。
猪瀬 和道

この投稿は 2012年4月4日 水曜日 8:58 PM に Whenever誌面コンテンツ, 巻頭インタビュー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2012-04-04
更新日: 2012-06-06
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