観光・遊び・買い物

旧電岩砲台

電岩砲台

電岩砲台

大連市旅順口区黄金街
入場料 15元(2010年春まで)
現在は入場、見学はできません。
電岩砲台は清朝末に造られています。当時は旅順口側にあった黄金山砲台から黄金山低砲と呼ばれました。その後、ロシアが大幅に整備拡張したものが現在の形状として残っています。東西にサーチライト(探照灯)を配備したことから電岩と呼ばれるようになったそうです。サーチライトの跡は今でも確認することができます。
整備拡張した結果、横約200メートル、幅約50メートル、1895式直径254mm大砲5台と直径57mm大砲1台を配備。砲台下に移動可能な6つのコンクリート製弾薬庫を持つ砲台として生まれ変わりました。

1895式直径254mm大砲

1895式直径254mm大砲

ロシア軍兵舎

旧ロシア軍兵舎

日露戦争時にロシア軍が待機、生活していた細長い兵舎が丘の下に残っています。実はこれがもっとも価値があるのではと考えています。

百発不中の砲台

電岩砲台からの旅順口

老鉄山から旅順口へふたをするように伸びる老虎尾と呼ばれる半島

百発不中?百発百中じゃないの?っと疑問に思われる人も多い言葉ですが、電岩砲台は、特殊な地形上に位置し、老鉄山が旅順口にまるでふたをするように迫り出しています。

直径57mm大砲

直径57mm大砲

そんなまさに天然の要塞ともいえる地形を利用したこの砲台は、上から狙い撃ちするように砲撃することは容易です。しかし、海からは狙っても砲台へ着弾させることができない。そのために百発不中の砲台と呼ばれたそうです。

弾薬庫跡

砲台下の弾薬庫跡

砲台下は全てつながっています。明り取りの窓などがないため昼間でも真っ暗です。

『坂の上の雲』の舞台。日露戦争の激戦地

日露戦争三次重大事件位置図

日露戦争三次重大事件位置図

左から山本五十六が軍艦初瀬で参戦。中央は、1904年2月8日23時45分に日本の太平洋艦隊が停泊中のロシア艦隊を奇襲し、日露戦争が勃発。下は、3度の旅順口閉塞作戦により、指揮官広瀬武夫が戦死、現在は靖国神社へ祭られている。3度の旅順口閉塞作戦にて、汽船17隻を使い、77人の戦死者を出す。
日露戦争(ウィキペディア)を参照する限り大きく相違はないと思われます。後半の船舶数と死傷者の数の数字は、少し違うような印象です。
まさに『坂の上の雲』の舞台です。100年以上経過した今でも旅順口は、重要な軍事的拠点と位置づけられています。
古写真や20世紀に入ってからの資料が少ないことから、対外戦争がなかった日露戦後は、使用されていなかったと推測されます。
参考サイト
大連市観光局
cits(日本語)
电岩炮台_百度百科
“百发不中”的电岩炮台铁血网

アクセス / 地図

タクシーを利用しないと行くのは難しいです。小高い丘になっており、一本道で周辺にも何もないため、帰りにタクシーを拾うのは困難な場所です。
2010年4月以降は、海軍管理地として入場禁止となっています。ご注意ください。

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この投稿は 2011年1月24日 月曜日 6:18 PM に 観光・遊び・買い物, 観光 カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2011-01-24
更新日: 2013-02-08
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