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第36話 高橋 佳子 物語

大連で人生の針路を探し求める高橋佳子さん

趣味で作った粘土のマグネット

稲門会と三田会のメンバーと

妹分の陳麗欣さん

人生の針路を探し求めて

接客から見えた社会とのかかわり

  世の中と自分とのかかわりにしっくり来るものがない。世間とは違う自分を意識し続けてきた。身近な人たちが疑いもなく受け入れている社会に「どこかが違う」と感じてきた。だが、それは激しい感情ではない。厭世観とも違う。割り切れない思いが、もやもやとなって心の中を覆っている。
  日本料理店「夢酒 みずき」店長の高橋佳子、27歳。人生の迷路の中で自分を探し求めて大連までやってきた。一時は世俗を離れ、家族を捨てて「出家しようか」と考えたこともあった。いまも時にはその思いが頭によぎる。が、少しずつ社会とのかかわり合い方が見えるようになってきた気がする。「30歳までに出家しなくても良いと思える〝答え〟を見つけたい」。高橋は笑顔の接客の中で自分を見つめ、人生の針路を探し求める。

のんびり屋の性格を育んだ愛媛の風土

  バブル経済華やかな1985年(昭和60)11月、高橋は愛媛県東予地方の中心都市である新居浜市に生まれた。住友グループの企業城下町として知られる故郷は、瀬戸内の海岸部から田んぼ、丘陵が続く穏やかな土地柄だった。高橋は父、正剛の仕事の関係で一家が神奈川県に転居するまでの11年間をこの地に暮らした。「のんびり屋でシャイ」と自ら語る性格は、この地の環境に育まれたのかも知れない。
  正剛は銀行員、母、富士子は学習塾で近所の子どもたちに勉強を教えていた。子どもは高橋と5歳上の姉、亜希子の姉妹2人。正剛は銀行員らしからぬ野心家であり、幼いころの高橋にとっては恐い存在で「野性的なタイプ」と映っていた。富士子は優しくて「可愛らしい女性」であり、幼いころから手料理をしっかりと食べさせてくれたことに、高橋はいまも感謝している。
  どちらかと言うと引っ込み思案の高橋。小学生のころは自分から前に出ることはなく、音楽発表会などではガチガチに緊張したことを覚えている。幼いころの遊びと言えば、仲の良い亜希子と一緒にままごとをしたものだった。高橋には恐かった正剛だったが、一家で大分や宇和島に旅行するなど家庭サービスもして、だれもが見ても高度成長期の豊かで平和な家族だった。
  正剛は囲碁好きだったこともあり、銀行員を辞めてコンピューターの囲碁対戦ソフトを作る事業を立ち上げ、新居浜から神奈川県大和市へ引っ越してきた。1996年(平成8)のことである。当時はアニメ漫画「ヒカルの碁」が爆発的なヒットとなって囲碁ブームが巻き起こり、正剛の事業も時流に乗って順調だった。しかし、引っ込み思案の高橋は転校生の悲哀を味わった。鋭い周りの視線に身をすくめ、遠慮のないからかいに心は暗い闇へと落ち込んで行った。
  それでも大和市立つきみ野中学校に進むと、仲の良い友だちもできて楽しい思春期を過ごした。クラブ活動は小学生からの友人がバドミントン部に入るというので、「それなら私も入る」と入部。親しい仲間はバドミントン部の女子4人。部活動が終わってからカラオケに行ったり、マクドナルドで男子生徒の話で盛り上がったりした。普通の女子中学生の姿があった。
  同級生に女子サッカーの日本代表「なでしこジャパン」のメンバーとして活躍した川澄奈穂美がいた。高橋には川澄との懐かしい思い出がある。名前は女の子だが「この子は可愛らしい男の子」と信じていた。いまは美人プレーヤーとの評判が高いが、当時は短髪で〝お猿さん〟のようだった。その川澄とバレンタインデーの前に友人宅へクッキーを作りに行ったとこのことだ。川澄の後にトイレに入った高橋は、便座が上がっていたことに「川澄は絶対に男だ!」と確信した。後で分かったのは、川澄と高橋の間に、その友人宅の兄がトイレを使っていたのである。高橋は川澄の活躍を目にする度、あのころの川澄の〝可愛らしい男の子〟が蘇ってくる。

〝目からウロコ〟のカリスマ講師との出会い

  楽しかった中学校生活にも思春期の高橋の心を揺らがす出来事があった。両親の別居。見合い結婚だった両親の心の溝は、埋まらないまま20年が過ぎていた。父、正剛は1人で大和市に残り、高橋と母、富士子と姉、亜希子の3人は横浜市青葉区に移り住んだ。「私より長女として厳しく育てられた姉は両親の間に入って大変な思いをした。次女の私はどこか冷めていた自分がいた」。
  やがて高校受験。高橋は自由な校風で憧れた神奈川県立市ケ尾高校に入れず、第二志望の県立元石川高校に入学した。クラブは「精神統一できる形が好き」と空手部に入ったが、相手と戦う組み手が苦手だった。人と争うことが嫌いだったのである。2年生からは退部して帰宅部となり、進学塾に通い始めた。時々会っていた正剛は、自分が法政大学出身だったこともあり、高橋にも大学進学を勧めた。富士子もまた、「大学に行きたかった」との後悔から高橋の大学進学を望んでいた。姉、亜希子は真面目な性格で成績も優秀。上智大学に入った憧れの存在でもあり、次第に「私も大学へ」との思いが強くなってきた。
  だが、大学受験1年目は全ての大学に失敗したが、「大学に入って喜ばせたい」と親孝行の気持ちが沸き上がり、浪人して再チャレンジすることにした。浪人中は予備校の河合塾横浜校に通い、ここで〝目からウロコが落ちる〟出会いがあった。現代文講師の山西博之。生徒の立場に立った授業は厳しくも楽しかった。高橋は受験勉強が苦痛に感じられなくなり、メキメキと力をつけて行った。兄貴分、鬼軍曹と受験生から慕われる山西は、噂通りのカリスマ講師だった。
  大学受験2年目の2004年(平成16)春、高橋は早稲田大学社会科学部に合格。父、正剛は「さすがオレの娘だ」と喜び、母、富士子はうれし泣きして目頭を押さえた。しかし、大学には入ったものの、人の感情が渦巻く世界が苦手で、いつも友人たちの輪から外れていた。コンパに夢中になっている同年生たちと距離感を感じ、将来への希望も見いだせない。次第に大学への足は遠のいていた。思えば高校時代も友人関係が苦手で、一時的な不登校に陥ったこともあった。

日本の社会から逃れて未知の大連へ

  高橋はほとんど講義に出ずに横浜や新宿でアルバイトに精を出した。塾の講師もしたし、夜はカフェや居酒屋などでも働いた。昼間は街を歩きながら風景や人を写真に撮り、その情景や高橋自身の心情を文章にしたためた。だが、作家やマスメディア志望といった明確な目的がある訳ではなかった。「自分に何ができるのか」「どんな仕事に就けば良いのか」。いつも吹っ切れない思いが滓のように深く心の底に沈み込んでいた。当時は金融危機やリーマンショックの影響による就職氷河期が再来し、高橋は就職活動に懸命だった同世代たちの輪から離れた世界に身を置いた。〝出家〟の二文字が大きく膨らんできたのはこのころだった。
  結局、大学は2年留年して2010年(平成22)3月に卒業。就職はせずにアルバイト生活を送った。神田の文房具店と新宿の居酒屋で働いていたが、心を揺り動かす対象が見つからない。不自由のない不自由な社会、とでも言うのだろうか。どうも居心地が良くない。やがて、日本とは違う環境で暮らしてみたいと思うようになっていた。そのころ、大学の大先輩でもある小田島章と知り合い、大きな転機を迎えることになった。
  小田島は東京を舞台に事業展開し、大連にも日本料理店「夢酒 みずき」を出店していた。海外で働いてみたい、との高橋の気持ちを知った小田島が誘った。「それなら大連に来てみないか」。高橋は日本の社会から逃れることができるのならば、どの国でも良かった。2012年(平成24)3月上旬、下見のために大連を訪れ、想像していた以上に都会で、日本にも似た街の雰囲気が気に入った。「ここならば暮らせそうだ」と、気持ちは決まった。
  日本に帰国して両親に報告したが、正剛は「何で外国の飲食店なんだ」と不満をあらわにした。しかし、富士子は「それも良いんじゃない」と賛成した。富士子が果たせなかった海外への夢を高橋に託したのかも知れない。こうして数日後の3月19日、高橋は「夢酒 みずき」の副店長として入店。小田島から全幅の信頼を受けた高橋は1か月後に店長に就任し、店を切り盛りすることになった。

お客やスタッフとの関係から見えてきた人生

  窮屈な日本の社会から脱出した夢の海外生活。規則、原則にこだわらない緩やかさが心地良いし、分からないことが多いことも逆に楽だと感じられる。だが、仕事面ではこれまでに経験したことのない〝きつさ〟を味わった。生活習慣や考え方の違う中国人スタッフとの関係をいかに築くか、いかに自分の意思を伝えて実行させるのか、言葉の違いもあって何度も壁にぶつかった。
  仕事に対する姿勢が違う。手間をかけることを厭い安易に流れる、自分の休みを優先させる、辞めたがる、接客マナーの意識が乏しい−―日本料理店としては致命的な欠陥でもある。わずか数か月の間に調理場、ホールともほとんどのスタッフを入れ替え、やっと高橋の目指す体制が出来上がってきた。そこには「彼女がいなかったら変えることはできなかったでしょう」と言うあるスタッフの存在があった。ホール担当の陳麗欣である。
  陳は高橋の4歳下で、高橋を姉のように慕う。日本語を話すことができ、高橋の指示を上手にスタッフに伝える。こうして陳を介在して高橋とスタッフの心が通い始めてきたのである。「陳さんは若いけれど苦労人。陳さんに学ぶことが多く、彼女がいなかったらここまで体制を整えることはできなかった」。高橋も妹に似た思いを陳に寄せる。もうひとつ、社会と向き合える手応えを感じ始めている。
  「日本では出会うことのできない素晴らしい人生の先輩と、この大連では普通に接することができる」。こんな喜びを素直に感じられるようになってきた。そして自分なりの接客術も見えてきた。お客の心を読む気遣いのサービスが得意ではないタイプ、と自認する高橋は、傲慢にならないように自分を抑えて笑顔のサービスを心がける。そうすることで心が通い始め、お客からも満足の笑顔が浮かぶようになってきた。
  最近は仕事に対するやりがいと充実感が少しずつだが、感じられるようになり、苦手だった人との付き合いができるようにもなってきた。まだ人生のイメージは描き切れていないが、もやもやした心の中にわずかな光が差し込み、大連で踏み出した一歩の方向が見えてきた。

この投稿は 2013年2月6日 水曜日 1:15 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

コメント / トラックバック2件

  1. FUJIKO より:

    高橋佳子かっこいい! これからも新しい挑戦を続けてね

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掲載日: 2013-02-06
更新日: 2013-02-06
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