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第32話 田中 孝樹 物語

大連生活を謳歌する田中孝樹さん

大連生活を謳歌する田中孝樹さん

ポジティブ思考で中国ビジネスに挑戦

2周年のダイニングバーに手応え

 夜の帳(とばり)が下りるころに眠りから覚め、煌々とネオンが灯り始める中山区民主広場の経典生活。酔客の大きな声やクラブから聞こえてくる激しいリズムなどが、渾然一体となってこの歓楽街を包み込む。そんな一角に店を構えるダイニング&バー「Seyana」。軽めのジャズが流れ、外の喧噪とは無縁のしっとり落ち着いた空気が店内を支配する。
 「大連にはないサービスを提供できる店にしたかった。それは、女性1人でも来店でき、静かな雰囲気を保ち、なおかつ友人と会話を楽しめる店。そして正しいお酒、感動してもらえる料理を楽しんでもらえる店」
 語るのはオーナー兼バーテンダーの田中孝樹。開店から間もなく2年になるが、コンセプトにブレはない。1人の女性客も多く、店のムードと酒、料理を楽しむ上質な雰囲気が店の個性として定着している。
 田中は男として脂が乗った46歳。温かな家庭に恵まれ、のびのびと育ってきたが、ここにたどり着くまで数多くの人と出会い、失意もあった。だが、田中は過去を煩悶することはない。正義感とボジティブな思考で突き進んできた。

生徒会長として学校側に立ち向かう

 「いざなぎ景気」と呼ばれ、高度経済成長のまっただ中にあった1966年(昭和41)。田中はこの年の1月、横浜市の保土ヶ谷に生まれた。父、順蔵は江崎グリコに勤務する転勤族だったため、一家は田中が3歳の時に愛知県師勝町(北名古屋市)に引っ越し、のどかな田園地帯で小学1年生まで過ごした。
 家族は父と母の孝子、2歳上の兄、茂樹、4歳下の弟、努の家族5人。次男坊の田中は3兄弟の中でも一番のわんぱく坊主だった。神社のさい銭を盗んでひどく怒られた。その相手は父親なのか、先生なのか、田中に定かな記憶はない。小学校1年の秋に一家は兵庫県伊丹市に転居、田中の思い出はこのころから鮮明に刻み込まれている。「せやな(そうだね)」。口癖の言葉が店名にもなり、関西人としての言葉も意識も伊丹で育まれたのだった。
 小学校は伊丹市立伊丹南小学校から同市立鈴原小学校へ転校し、高校時代に野球部だった父の影響で野球に明け暮れた。田中は6年生の時、すでに身長170センチ。同級生より頭1つ大きかった。ピッチャーで4番。「将来は野球の選手になりたい」と夢を描いていた。
 中学校は同市立伊丹南中学校で、4年先輩には歌手徳永英明がいた。当時は学校が荒れている時代で、田中の学校も例外ではなかった。生徒の矛先は同級生へのいじめではなく、教師や学校に対してのものである。校則第一で靴下は白色、髪の毛は耳が出る長さ、男女交際も禁止されていた。生徒会長だった田中は理不尽な学校側に立ち向かった。「なぜいけないのか」。骨っぽい正義感がすでに形成されていた。
 勉強は試験前に打ち込む〝一発型〟だが、成績は常に上位だった田中は、阪神地区でも優秀校とされた兵庫県立伊丹高校に入学。「将来は体育教師になりたい」と目標を定めていた。戸惑ったのは、余りにも自由な校風だった。あれほど厳しかった中学校とは対極にあった。服装、髪型は自由、勉強についてもうるさく言う雰囲気はまったくなかった。そんな開放された空気の中、入学当初は上位だった成績は次第に落ちて行った。
 高校2年の父兄懇談会には、仕事に忙しかった両親に代わって兄が来た。田中の成績は下から1割のラインにいて、「このままではどの大学にも行けない」。兄は同じ高校の卒業生で、コツコツ勉強する努力家の秀才だった。その兄の励ましもあって、国立大学の体育学科を目指した田中の猛勉強が始まった。だが、現役受験は失敗、浪人生活が始まった。

YMCA活動に目覚めて職員に

 この年の1984年(昭和59)3月に江崎グリコ社長が誘拐されるなど、食品会社を狙った「グリモリ事件」が発生。同社の売上げは大幅に落ち込み、社員だった父の給料もカットされてしまった。田中は両親に頼ることもできず、午前中は予備校に通い、午後は写真店でカメラマン補助員のアルバイトに精を出して浪人生活を送った。
 目指す大学も現実的な戦略に変更した。数学と理科が苦手だった田中は、受験科目の多い国公立をあきらめ、私立の文科系に絞り、翌年は同志社大学と関西学院大学を受験。同志社大は落ちたものの、自宅から通学できる関西学院大経済学部に合格した。入学間もなく、ゼミの友人に誘われ、大阪YMCAの大学生リーダーとして活動に加わるようになった。これがその後の田中の生き方を決める分岐点となったのである。
 YMCAでの活動は、小学生たちにスポーツや野外活動を指導するもので、体育教師を目指したこともあった田中には、まさに願ってもないものだった。毎月1回、子どもたちをオリエンテーリングに連れて行き、飯ごう炊さんやヨット、カヌー、スキー、水泳を教え、大学生のリーダーが集まってはプランを練り、下見もした。大阪YMCAの幹部職員だった錦織一郎さんの人柄にもひかれ、卒業後は大阪YMCA職員として入所した。大学のゼミの仲間たちは大手の銀行や証券会社に入り、ゼミの教授からは「君のような人間は珍しいね」と言われたものだった。
 大阪YMCAに1989年(平成元)4月から4年間在籍し、水泳の指導員として婦人や幼児、小学生、成人などの教室で教えていた。この時、同僚だった妻、千佳と知り合い、同い年ということもあってウマがあって1992年(平成4)1月に結婚。千佳の父親は大阪府茨木市で倉庫会社を経営し、倉庫業に加えて物流加工などのビジネスも展開していたが、千佳は2人姉妹で跡継ぎがいない。このため田中は養子入りして、安曇から姓を変えたのだった。大阪YMCAを辞め、翌年4月に跡継ぎとして田中倉庫株式会社に入社した。

YMCA職員時代に千佳さんと

YMCA職員時代に千佳さんと

危機に直面した跡継ぎ経営者時代

 周囲からは〝逆玉〟とも揶揄された。体を動かすYMCA時代とは違い、事務所で管理する仕事で、次期社長のイスが用意されていた。が、災難は2か月後にやってきた。子どもたちの火遊びが原因と見られる不審火で倉庫は全焼。拠点を失った田中は、パートで雇っていた女性たち20人を率いて、他社の倉庫を転々としながら作業を請け負うジプシー生活を送るハメになってしまった。だが、田中は落ち込むことはなかった。
 「このパートのおばさんたちは仕事のプロ集団。私もライトバンで送り迎えをしたり、一緒に作業をしたり。元々体を動かすのが好きだったので、返って充実していた時間だった」
 冷凍倉庫会社から倉庫の管理を任され、ジプシー生活に終止符を打ったのは火事から4年後だった。この倉庫が扱っていたのはグリコの冷凍食品。グリコの担当者は父の部下だった。偶然とは言いながら、田中は縁の不思議さ、大切さを痛感したのである。2002年(平成14)、田中は義父の跡を継いで社長に就任したが、翌年に冷凍倉庫会社が倒産、そのあおりを受けて田中倉庫も窮地に追い込まれてしまった。売上げは三分の一に激減したため、倉庫会社や工場に人材を送り込む派遣業に業務の軸足を移して行った。過去をいつまでも悔やまない田中の処世術が、ここでも行く手を切り拓いたのである。
 人材派遣業はやがて軌道に乗り、60人ほどを送り出して収益も上げた。が、〝3K〟分野の倉庫作業は敬遠され、次第に人が集まらなくなり、派遣業にもかげりが見えてきた。そのころ知り合ったのが、名古屋の中国人研修生受け入れ企業。「大阪以西の営業をしてみませんか」との誘いを受けて、中国人研修生を雇用する企業を開拓して歩いた。これが中国とかかわる起点となった。2006年(平成18)年のことだった。
 田中は月1回のペースで中国を訪れ、陕西や青島などで中国人の研修生希望者を面接して日本の企業に送り込んでいた。2年ほどは業績も良かったが、今度はリーマンショックの影響を受けてしまった。日本の企業側は研修生との契約を解除し、中国人研修生とのトラブルが続出。田中は人を扱う仕事に疲れ切ってしまった。しかし、この仕事を通して中国のエネルギーを肌で感じ、「中国とかかわるビジネスをしたい」との思いが沸き上がってきた。

子どもたちとの共通話題はスポーツ

 「中国に語学留学して、その後は中国で仕事をしたい」。妻の千佳に打ち明けたのは2009年(平成21)に入ってからだった。当時、3人の子どもは小学生と中学生、高校生で、父親の存在が必要な思春期にあった。「何を考えているの?」。千佳は不満を口にしたが、田中が決めたら曲げないことを知っていた。こうしてこの年の9月、大連の遼寧師範大学で田中の語学留学生生活がスタートした。

各国の留学生と交流した遼寧師範大時代

各国の留学生と交流した遼寧師範大時代

 大学の授業のほかに、大学院教師からも個人指導を受けて猛勉強し、1年後にはHSK4級を取得した。その一方では起業の準備も怠りなかった。大連市内を歩き回り、「日本にあって中国にないサービス業」を探し求めた。その答えがダイニングバー。コンセプトに揺るぎはない。あとは腕の良い調理スタッフの確保だった。そんな時に出会ったのが、かつての「バール・バッコ」オーナーシェフの杉田隆裕。杉田が作るイタリアン料理は抜群の美味しさの〝すご腕シェフ〟である。
 こうして中国ビジネスに挑戦する体制が整い、2010年(平成22)12月、経典生活に念願の「Seyana」を開店させた。田中と杉田は絶妙のコンビ。「雰囲気が良い」「本物、本格的な飲み物」「食べ物が美味しい」。日本人の間でこんなうれしい評判が広がってきた。「当初の判断、方針に間違いはなかった」。田中は手応えを感じている。
 その一方で大連生活を謳歌する。ラグビーチームに所属して仲間と清々しい汗をかく。ゴルフも釣りも楽しみ、2、3か月に1回は帰国して家族と語り合う。長男岳は京都大学でラグビー部に所属、長女花は高校でバドミントン、次女晴は中学でバスケット。共通話題のスポーツで親子の会話が盛り上がる。
 中国でビジネスに打ち込み、日本で家族との団らんで穏やかな時間を過ごす田中。「将来は中国東北地方にもう1店舗出したい」と、何度も仕事の危機を乗り越えてきた持ち前の積極思考で、夢に向かって突き進む。

3人の子どもと一緒に(35歳のころ)

3人の子どもと一緒に(35歳のころ)

この投稿は 2012年10月10日 水曜日 10:42 AM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

コメント / トラックバック2件

  1. 津熊照美 より:

    田中社長様
    お元気でお過ごしでしょうか?
    昨日、何からか
    田中社長を思い出して
    お名前でインターネット検索し
    この記事を読みました。
    お元気そうなお姿を拝見出来て良かったです。
    有り難うございます。

    • 慶次郎 より:

      津熊 照美さん、
       コメント有り難うございます。

       大連へ来られることがあれば、Seyanaへ訪れてみてはいかがでしょうか。Seyanaがあるエリアは、日本の居酒屋やバーなどでいつも多くの人たちで賑わっている場所です。

       今後ともWhenever大連ローカルをよろしくお願いします。

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掲載日: 2012-10-10
更新日: 2012-11-07
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