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第31話 渡辺 愛子 物語

女将として日本の温泉文化を伝える渡辺愛子さん

女将として日本の温泉文化を伝える渡辺愛子さん

父が引き寄せてくれた生まれ故郷

女将として伝える温泉文化

 大連に生まれ育ち、終戦間もなく一家で父の実家である岡山県倉敷市へ引き揚げた渡辺愛子。それから57年後に再び大連へと戻り、瓦房店市龍門温泉の日式旅館「大和館」の女将として夫の和雄とともに、日本の温泉文化を生まれ故郷に伝える。巡り来る人生の因縁。父が再び引き寄せてくれたのかもしれない、と渡辺は思う。
 途切れ途切れになった幼いころの記憶が、端切れを縫い合わせるように繋がり合い、父母の姿や言葉が蘇る。懐かしさと混乱期の苦悩−―その度に涙が頬を伝わり落ちる。「無駄な苦労はひとつもない。いつかはその苦しみが生きてくる」。渡辺はこう言って戦前、戦中、戦後の激動期を歩んできた人生を静かに振り返った。

憲兵が敬礼する父に「偉いの?」

 渡辺愛子が父・宇野担(ひろし)と母・みつよの長女として生まれたのは、大連市の旧錦町。いまの民航ホテルの近くである。1935年(昭和10)2月、日本が中国東北地方への侵攻を強め、「旧満州国」建設の号令のもとに日本から開拓団が続々と入植していたころだった。父・担は当時、外事特高警察に所属していたが、家族に仕事の話をすることは一切なかった。幼かった渡辺にも父の存在が不思議に思えることがある。大連の街を歩いていると、憲兵たちが担に向かって敬礼をする。「お父ちゃんって偉いんだ」と、口ひげをたくわえた精悍な担の顔を見上げたものだった。後に渡辺は担の〝謎の経歴〟の断片を知ることになる。

外事警察勤務時代の父と家族(左から2人目が渡辺さん)

外事警察勤務時代の父と家族(左から2人目が渡辺さん)

 担は30歳まで岡山の軍隊に所属し、5県合同の射撃大会で優勝するなど筋金入りの軍人だった。旧満州国が成立した1932年(昭和7)に大連へ渡って外事特高となり、その2年後には大連市の「満州法政学院法律科」に入学。2年間在籍してロシア語や中国語を学び、特務機関の教育を受けたという。
 当時、日本外務省の要請を受けて軍馬の育成を担当したロシア軍人シュミノフの研究者だった大連外国語学院の中国人教授から、「シュミノフと通じていたのはあなたのお父さんです」と、担が亡くなってしばらくしてから聞かされた。そう言えばあんなこともあった、と渡辺は思い出す。渤海に面した夏家河子へ引っ越し、担は時には軍馬で帰宅して、自分の前に渡辺を乗せて海岸線を突っ走ったこともあった。その研究者は「シュミノフは終戦後、モスクワの街を引き回され、処刑された」とも言った。
 夏家河子は大連きってのリゾート地であり、満鉄職員や医者、高級技術者など一部の日本人しか住むことが許されなかった。渡辺の家は瀟洒な洋館で、ここに両親と祖母の勇(ゆう)、3歳下の妹と7歳、10歳下の弟2人の7人家族で暮らした。もちろんお手伝いの女性、ボーイもいた。自宅のほかにも住宅6軒、畑もたくさん持って地元民に作物を作らせていた。
 自宅には「男装の麗人」と言われた清朝最後の王女・愛新覺羅顯㺭の川島芳子が来たこともあった。たばこをスパーッと吸う姿に「女のくせに」と、9歳だった渡辺には衝撃的なシーンとして焼き付いている。貸家の1軒は長春の「満映」の別荘として貸し、映画関係者たちが避暑に訪れていた。そんな優雅な暮しぶりも終戦とともに消え去った。

一家が暮らしていた夏家河子の自宅

一家が暮らしていた夏家河子の自宅

地獄絵を見た引き揚げ船の8日間

 外事警察関係者は大連市内に集まるように命令が出され、担も家族とともに夏家河子の隣にある市内の甘井子区へ移った。当時、外事警察関係者は逮捕、監禁され、シベリアに抑留されるなど、悲惨な末路をたどったのである。しかし、担を救ったのは中国人だった。「大連市内に行けば殺される。夏家河子に戻れば私たち中国人が守る」と一家を迎えに来たのだった。担は中国人に対しても公平に接し、日本人の中国人に対する非礼には厳しく指弾した。そんな担は中国人から信頼を集めるようになっていた。
 担は夏家河子に残留した日本人の生計を立てるため、駐留したロシア軍幹部と交渉して軍の洗濯業務を引き受けた。リーダーとしての担は日本人社会からも人望を集めたのである。終戦から1年5か月後の1947年(昭和22)1月、渡辺たち一家7人と担の弟一家7人の計14人は大連港から引き揚げ船で帰国の途についた。ここで渡辺はいままで暮らしてきた世界とはまったく違った地獄を見た。
 引き揚げ船の船底に板が蚕棚のように渡され、畳一畳分に3人ほどが割り当てられ、身動きもできないほどだ。船内には悪臭が蔓延し、病気人のうめき声、泣き声も聞こえてくる。病死者は相次ぎ、その度に水葬の汽笛が鳴らされ、船内は悲しみに包まれる。その引揚者の中に渡辺の同級生がいた。やせ細って顔はひび割れ、衣服は汚れ、破れていた。隣にはやつれた母親の姿があった。「おばさん!」と声をかけることはできなかった。渡辺はカシミヤのコートに皮の靴を履いていた。
 引き揚げ船は8日後に佐世保港に着き、1週間の収容生活を経て担の実家である岡山県都窪郡菅生村(現在の倉敷市浅原)へ戻ってきた。宇野家は鎌倉時代から続く名家で土地持ちだったが、農地解放で土地は小作に渡り、残ったのはわずかばかり田畑だった。担は「村長になって欲しい」という地元民の求めに首を横に降り続けた。特務機関の経歴があったためか、官職として表舞台に出ることを拒んだのである。
 喉頭結核を患っていた母・みつよの病状は悪化し、祖母・勇も老衰が進行して、生活費の上に治療費もかかる。担が一時、日雇い労働者の「にこよん」で家計を支えていたことは、妹や弟たちは知ることもなかった。渡辺は地元の小学校に通いながら、森林を開墾して桃やブドウの苗を植えた担の手伝いもした。何の苦労もなかったお転婆は、同級生のイジメに涙する内向的な性格へと変わって行った。
 渡辺が中学2年生の時、祖母と母が相次いで他界した。祖母81歳、母41歳だった。母・みつよの言葉を忘れることができない。「お父さんのおかげで長者暮しもさせてもらった。だけど、せめて子どもたちの成長だけはこの目に収めておきたかった」。弱々しい声で渡辺に語りかける母。渡辺はその姿を思い出すたびに涙が止まらない。

父の懺悔に溢れ出てきた涙

 成績優良児として中学3年の時に表彰を受けた渡辺。担任に「将来は何になりたい」と聞かれて、「看護婦」と答えた。母の病気を見続けてきたためだった。担任は「お前なら医者になれる」と励ました。しかし、家には妹やまだ幼い弟たちがいる。高校進学を諦め、母親代わりとして19歳まで父や妹、弟の面倒を見続けたのである。
 父・担は渡辺が24歳の1959年(昭和34)12月に71歳で亡くなったが、その3か月前に渡辺の前で手をついて頭を下げた。当時、渡辺は和雄と結婚して大阪の尼崎に住み、長男・賢治が生まれたばかりだった。「高等教育を受けさせてやれなくて申し訳なかった。弥生高女(大連)から奈良女子に行かせてやりたかった。村長を受けていたら、女房を死なせることはなかっただろうし、お前にも……」。渡辺が溢れ出る涙を抑えきれなかった。
 担は55歳で後妻を迎えたが、反対だった渡辺は家を出て、親類が経営する熱海の高級旅館で3年間働いた。この時代の経験が、いま大和館の女将として陣頭指揮を振るう渡辺の原点になっている。文豪の谷崎潤一郎夫妻や僧侶で小説家の今東光、東京都知事の安井誠一郎らが常連客の名門旅館。渡辺はこの時に茶華道を習得し、心を込めた接待も身につけたのである。
 そのころ、倉敷のダンスホールで知り合った和雄と遠距離交際をしていた。「恐い」と思っていた男性のイメージが、優しく教えてくれる和雄で変わった。手紙のやり取りが続き、1957年(昭和32)に結婚。渡辺22歳、和雄26歳だった。2級建築士の和雄は、「3年後には1級をとるから」と約束し、その言葉通り猛勉強で1級を取得した。
 和雄は神戸の工務店に勤務した後の1974年(昭和49)、神戸市の灘で独立して工務店を立ち上げた。会社の経営は安定し、家庭内も賢治に続いて2年後に長女恵美子が誕生、一家4人の幸せな暮しが続いた。しかし、2001年(平成13)、不景気の波に太刀打ちできず、25年間続けた会社を整理したのだった。

夫婦で作り上げた日本基準の大和館

 そのころ、大連外国語学院の中国人教授から誘いがあった。「思い出の夏家河子に住んだらどうですか」。ただし条件がひとつあった。「あなたのお父さんは中国人を大切にした。あなたもお父さんのように優しくして欲しい」。渡辺はその前から夏家河子を何度も訪れ、母校の小学校にテレビや図書類を寄付するなど、すでに中国人と心を通わせていた。
 別の中国人の知人からも声がかかった。「龍門温泉の大和館で日本人を求めている」。懐かしい大連に暮しながら旅館勤務の経験も生かせる。2人の子どもも独立してそれぞれ頑張っている。もう渡辺に迷う要素はない。大連行きを決心したところ、和雄も「一緒に行く」。こうして2人は2002年(平成14)7月、大連広域市の瓦房店に新天地を求めたのだった。
 大和館は開業7年を迎えた日式温泉旅館で、和雄は知識と技術を生かして施設部門、渡辺は女将として内部を担当した。しかし、夢はすぐに失望へと変わった。スタッフはあいさつもできない、電話の応対もぶっきらぼう、館内掃除もいい加減だった。「さて、どうしたらいいものか?」。悩んだ渡辺は基礎からのスタッフ教育に取り組んだ。言葉遣い、笑顔の応対、整理整頓などなど、何度も何度も繰り返して教え込んだ。「これならば日本のお客様にも満足していただける」という合格ラインに達するまで5年を費やした。
 建物の改修工事も和雄の指揮で進んでいる。本館は3年前に終了し、コテージ6棟の改修も間もなく終わる。しゃれた従業員寮も建て替えた。また、高級旅館の大和館観山閣もオープンさせた。渡辺は笑顔で接待するスタッフや日本の旅館と変わらぬ施設を前に、しみじみと思う。「無駄な苦労はない」。充足感の一方での心配事は2人の健康だ。和雄は昨年1月に心臓を患い、渡辺は今年4月に軽い脳梗塞で治療を受けた。だが、2人はいまも長女・恵美子が住む京都と龍門温泉で半分ずつの暮しを続ける。

二人三脚で来た渡辺さんと和雄さん

二人三脚で来た渡辺さんと和雄さん

 日本では子どもや孫たちとの家族の居心地の良さに身を置き、大連では仕事の経験を生かし、孫ほどのスタッフたちと交流する。日本の友人たちも、そんな2人の暮しを羨ましがる。「いろいろな人と出会え、いろいろな経験ができた」。渡辺の胸に大連との縁を作ってくれた父、母への思慕の想いが熱くこみ上げてくる。

この投稿は 2012年9月11日 火曜日 5:30 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2012-09-11
更新日: 2012-09-14
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