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旧満鉄本社ビル

旧満鉄本社ビル

南満州鉄道株式会社旧本社ビル

戦前の満鉄の旧本社ビル。現在も中国鉄路局の大連支局として使用されています。
大連市中山区魯迅路9号[地図]
<バス・電車>
中山広場から魯迅路へ向かい徒歩5分の右手。
各中山広場 下車 203 世紀街 下車
満鉄といえば中学校の歴史の教科書にも必ず登場するほど有名ですがその旧本社が大連にありました。
現在も現役で活用されているため正確には旧跡とはいえないと思いますが、中山広場周辺の戦前の建物も含め今も活躍していることが歴史的な価値が大きいと思います。

南満州鉄道本社古写真
南満州鉄道本社古写真。横からの撮影

南満州鉄道株式会社 本社古写真

写真出典:共にWikipedia (ウィキペディア)より。
下の写真:1941年、南満洲鉄道株式会社編集・発行のパンフレット『大連』
南満州鉄道株式会社(通称、満鉄)は日露戦争勝利後の1906年(明治39年)に設立された半官半民の会社で大連、中国東北地方の開発へ大きく関る歴史を持ち、旧大和ホテル(現大連賓館)や大連港など現在の大連の都市インフラの基盤を作る役割を担った会社です。最盛期は80の団体を組織してたそうです。
1907年、本社を東京から大連に移転、1908年には帝政ロシアが建設中だったこの建物を改修、本社ビルとして使用を開始。1945年、連合軍総司令部(GHQ)の解散命令を受けるまで満鉄の中枢部であり続けた空間。満鉄のモデルは帝政ロシアの会社との説もあります。
往時と外観を比較すると少し屋根と正面建物の形状が異なるように感じられます。下の写真は(1941年、南満洲鉄道株式会社編集・発行のパンフレット『大連』より)3棟ある本社の正面左手から撮影されたものです。満鉄の業務拡大に伴い当初1棟だった本社ビルは最終的に左右2棟を加えて3棟で本社としたようです。
しかしよく見ると上と下の写真で建物の形状が異なっているようです。下の古写真は現在の建物の形状にほぼ近く上の写真は屋根の装飾が豪華に感じます。詳細は不明ですが上記写真は1907年当時かそれに違い年代のものでロシア建設の学校だった建物の名残を残しているのかも知れません。
ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授いただけると助かります。

満鉄旧址碑

満鉄旧址碑

100年以上前の建物が現在も活躍している点は歴史的にものすごい意義深いことだと思います。過去の歴史の事実として後世へ伝える遺産となることを願っています。

満鉄時代のマンホールの蓋

唯一現存する満鉄時代のマンホールの蓋

上記石碑の近くに唯一現存する満鉄時代のマンホールの蓋です。(石碑から観ると左側。)
満鉄の紋章はアルファベットのMに鉄道のレールの断面を合わせたものなんだそうです。
激動の日中の歴史を見つめてきたマンホールの蓋なんだと思います。
魯迅路周辺には満鉄に関する旧跡として満鉄旧図書館や旧満鉄社員倶楽部などが残されておりそれぞれが現役で活躍中です。

魯迅路から中山広場向きの様子

現在の魯迅路から中山広場へ向かって撮影したものです。左右の旧本社が少し前に出ていて、中央の建物だけが奥へ引っ込んで建てられています。多くの資料では一番奥(中央)の建物のみを本社としているものが多いのですが正確には3棟の建物すべてが本社としての機能を果たしていたようです。

旧満鉄図書館

旧満鉄図書館

満鉄旧本社のすぐ目前にあるピンク色の壁をした建物が満鉄が1912年に建設、1914年完成の満鉄図書館です。現在は大連図書館日本文献資料館として一部現役で使用されているようです。(新館が完成し移転したため現在は分館。)

旧満鉄図書館正面

16世紀末から18世紀に反ルネサンスの動きから生まれヨーロッパで流行した重厚で動的かつ装飾的ないわゆるバロック様式といわれる特徴を持つ建物です。参考:『大辞林』三省堂/アップルワールド/ウィキペディア

石碑

旧満鉄図書館の石碑

石碑には中国語と日本語で文字が刻まれていました。石碑によると建築面積は2,473平方メートルで大連市の歴史的な建造物の中で完璧な形で残るバロック様式の建物であると紹介されています。バロック様式は建築だけではなく様々な芸術分野へも影響を与えてバロック音楽といえば誰もが知るバッハがその代表格といえるでしょうか。

満鉄図書館右側

大連図書館の右側に入り口と思われる扉があります。

旧満鉄図書館左側の建物

立派な柱を有する荘厳な雰囲気を持つ建物です。図書館の左側に建っていますが、建物自体はつながってはいないようです。説明等がなく調べてみたのですが現時点では不明です。しかしながらバロック調の建築様式などから推測すると同時期に建築であると推察されます。現在は電話系の会社として現役で使用されています。

旧満鉄社員倶楽部

旧満鉄社員倶楽部入り口

旧本社から1~2分ほど三八広場へ向かって歩くと旧満鉄社員倶楽部があった敷地が魯迅路沿いに見えてきます。入口の門には満鉄の社章も残っています。誰でも入場可能です。

入り口近くの庭園

庭園といった感じでしょうか。数箇所に石碑のようなものがありますが崩壊して字も読めない状態でした。

鉄路文化宮

敷地内の建物。演劇や舞台などを観賞する建物?

敷地内の建物

何の建物でしょうか。当時の建物ではないようです。

敷地内の建物2

この敷地にはイリギスのクラブをモデルに満鉄の社員向けの娯楽施設として、クラブ(舞踏場)、集会場、バー、柔剣道場などがあったようです。現在の鉄道関係の人の施設として使用されています。
資料等を調べると1924年に建てられた赤い当時の建物が残っているそうなので改めて調べに行ってきます。この旧満鉄倶楽部については観光ガイドのもほとんど載っておらず、資料等も少ないため情報をお持ちの方がいらっしゃれば教えてください。
歴史的な史跡、観光地が少ないといわれる大連ですが現役で活躍しているために史跡とされないのかもしれません。この満鉄旧跡のように隠れた名所はマダマダたくさんあるのかもしれませんね。

この投稿は 2007年5月17日 木曜日 12:05 AM に 観光・遊び・買い物, 観光 カテゴリーに公開されました。

コメント / トラックバック4件

  1. 田川 賢二 より:

    昭和13年10月30日の太平山駅でお「あじあ号」転覆事故の写真が1枚でてきました.その当時私の父が隣の大石橋駅に勤務しており、本人も写真に写っております.事故の詳細を知りたいと思っております.その時はまだ私は生まれておりませんでしたが・・・.

  2. 慶次郎 より:

    田川 賢二さん、
    コメント有り難うございます。
    昭和13(1938)年10月30日の事故の件は初めて知りました。
    ウィキペディア
    http://ja.wikipedia.org/wik
    によると太平山駅は大連からは220~230キロほど離れたあたりのようですね。
    また、大連から大石橋駅からは240キロ。現在の瀋陽から160キロあたりと現在の遼寧省の真ん中あたりに位置していいた駅のようでこれも初めて知りました。
    事故についても調べてみました。しかし残念ながら詳細については検索されないようです。
    同じくウィキペディアに1文のみで紹介されていました。
    1938年(昭和13年)10月30日に下り「あじあ」が連京線太平山駅で転覆し、乗務員1名が死亡、2名が重傷を負う事故が発生したが、乗客は軽傷のみであった。
    http://ja.wikipedia.org/wik
    勉強になりました。情報有り有り難うございます。今後、調査して何か新しい情報を見つけるができましたらご報告させていただきますね。

  3. Edwards22Eugenia より:

    freelance writer

  4. 慶次郎 より:

    Edwards22Eugeniaさん、
     コメント有り難うございます。意味深な一言ですね。ですが、名探偵コナンではないので、このキーワードだけでは謎を解明することはできそうにもありません。残念です。

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掲載日: 2007-05-17
更新日: 2013-02-17
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