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第15話 池田 憲昭 物語

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大連で切り拓く日本料理の新境地
テーマは中国人スタッフの育成

大連で切り拓く日本料理の新境地

大連で新境地を開く池田憲昭さん

テーマは中国人スタッフの育成

 京都の老舗料理店「たん熊」で修業し、ニューヨークの日本国総領事館で料理長を務めた池田憲昭。いま大連で「楽グループ」の総経理兼料理長として「寿司楽」と「居酒屋楽」で、その確かな腕を存分に振るう。伝統をかたくなまでに守り続け、季節感にこだわる京料理。アメリカで新しい日本料理のスタイルに出会い、京料理の定義から解き放たれた池田は、蓄積した調理の技を駆使し、新境地を切り拓こうとしている。
 「中国人スタッフにすべてを教え、育てたい」。まったく予期せずにたどり着いた中国大陸。この大連で自分の店を構え、後継者育成というテーマも見いだした。池田は人生の新たなステップを上り始めている。

父の背中が教えてくれた仕事の姿勢

 戦後10年たった1955年(昭和30)から続いた日本の高度経済成長。その終焉とともに安定成長期に入った1973年(昭和48)はベトナム和平協定が調印され、第4次中東戦争が勃発、日本は深刻な石油危機を迎えていた。世界も日本も大きく変わろうとしていたこの年、池田は福岡県南部の八女市に3人兄妹の二男として生まれた。
 肥沃な土地と自然環境に恵まれた故郷。父隆は温州ミカンの栽培農家とともに、春は養蜂家として蜂蜜を求めて九州を移動して生活していた。夜は八女市特産の電照菊を市場や空港に運ぶ運送の仕事もこなす働き者だった。養蜂業は兄が引き継ぎ、父はいま隠居生活を送っているが、池田は父の働く後ろ姿を見て育った。コツコツと努力すれば必ず報われる。板前の辛い修業を乗り越えることができたのも、父の背中が教えてくれたからだと思う。
 母ひとみは九州男児に仕える妻役を見事にこなしていた。子どもには優しい父だが、母には厳しかった。些細なことでも叱りつけ、子ども心にも「そんなに怒鳴り散らすことではないのに」と思うことが度々あった。だが、母はやんわり受け答え、時には聞き流していた。そんな両親と3人兄妹の平和でのどかな5人暮らし。恵まれた風土と家族の中で、池田は伸び伸びと育って行ったのである。
 小学校時代の池田は、物まねで友だちを笑わせる人気者であり、やんちゃ坊主でもあった。中学校では柔道部で3年間活動したが、部員は団体戦に出場できる5人しかおらず、「大会に参加するだけの柔道部だった」。高校は家から近いという理由で地元の県立黒木高校に進学したが、この高校時代が池田の将来の方向を決めさせた人生の転機となった。

料理人へ導いた高校時代のアルバイト

 運転免許を取るための費用稼ぎとして、2年生の時に魚屋、3年生は居酒屋でアルバイトをした。 魚屋ではサバの三枚下ろしで包丁の腕を上げ、魚のウロコなどがこびりつくプラスチック製のザルの洗い方も知った。ザルの汚れはザルの目に沿ってタワシのブラシを軽くこすると、きれいになる。考えながら丁寧に作業をすることは、料理人にとって素質のひとつでもある。
 居酒屋では焼き物とホールを担当し、自分で焼いてお客に運んだ。「焼きが足りない」「しょっぱ過ぎる」。仕事の評価が直に伝わってくる。「美味しくない、と言われた時は、こっそり自分でも食べて原因を知ろうとした。とにかく『美味しい』と言われたかった」。料理人としてのDNAはすでに池田に組み込まれていたのである。
 卒業を前に、池田は料理人になりたいと思うようになっていた。魚屋の女将さんが作ってくれたサバの煮付けの美味しさが忘れられない。「あんな料理を母に食べさせてやりたい」。包丁をさばく調理人の格好良さにも憧れた。そんな池田にアルバイト先の居酒屋店長が調理師を紹介してくれ、「本気で板前になりたいのならば、修業先を紹介してやろう」。それが「たん熊」だった。
 九州から出たことのなかった池田だが、不安より未知の世界へ踏み込む期待で気持ちは高揚していた。最初の仕事は漬け物係。京漬け物を業者から仕入れるとともに、〝下っ端〟として調理場を分けも分からないまま動き回った。同期は5人。中には調理師学校の卒業生もいて、知識も技術も池田とは2歩も3歩も進んでいた。調理器具の名前が分からず、まごまごしていると先輩から怒鳴られる。しかし、半年もするとその差は次第に埋まって来た。努力する者と手抜きをする者。ついにカメがウサギに追いついたのである。その後、寿司カウンターの補助、揚げ物、前菜をそれぞれ1年間ずつ担当、さらに煮物2年、刺身1年を経験し、7年過ぎた1997年(平成9)に新規オープンした博多の大丸店へ副料理長として転勤となった。
 この7年間は料理人としての技術だけでなく、料理に対する精神を徹底的に叩き込まれた。先輩たちから指示を受けた時、お客を待たせているのか、それとも面倒くさいから仕事を振ってきたのか、それを見極めて処理することの大切さを知った。また、オーダーが団子状態で入ってきた時、同時進行でいくつかの料理をこなす術も身につけた。辛いこともたくさんあった。春と秋の結婚式シーズンは休みもなく、ひたすら働き続けた。午前4時半に起床し、休み時間がないまま食事もできずに仕事に追われ、終わるのは翌日の午前1時。こんな生活が続き、体で調理人としての忍耐力を培ってきたのである。

日本料理を見つめ直したニューヨーク勤務

 大丸店は10歳上の料理長と現地スタッフ8人の10人。刺身とカウンターを担当しながら仕入れ全般も任された。この大丸店で3年間勤務し、やっと1人前の料理人と言われる10年が過ぎていた。2000年(平成12)には新規開店した東京の東京DOMEホテル店に転勤となり、副料理長の下の主任として若者たちの指導を担当。規模も動くお金も桁違いで、調理場だけでも40人の大所帯だった。1年後にまたも新規開店した軽井沢の万平ホテル店に副料理長として赴任。ここで池田は大きなチャンスをつかむことになるが、料理人としてこれまでにない苦労も味わった。食材の確保の難しさである。京料理なのに京野菜が入らない。京都からの取り寄せだけではまかなえず、地元の野菜も入れて作らざるを得ない。セオリーだけでは通用しない発想の転換に迫られた。
 万平ホテル店長は池田が憧れていた京都本店の店長も務めた本城達也。フランスの日本大使館料理長も経験し、その時の勤務ぶりがテレビ番組で流されたこともあった。「本城さんのように海外で働きたい」という気持ちが高まってきた。意外にもチャンスはすぐにやって来た。外務省から「たん熊」にニューヨーク総領事館の料理長派遣の要請が来たのである。条件は仕事ができて20歳代、そして独身。池田は29歳で独身、これまで経験を十分に積んできた。白羽の矢が立ったのは言うまでもない。
 こうして池田は念願の海外勤務となったのである。2002年(平成14)2月、アメリカ同時多発テ事件から5か月後のことだった。ニューヨーク総領事館の総領事は西田芳弘。池田は西田が本省へ帰任するまでの1年半をニューヨークで暮らし、京料理の枠を超えた自由な発想でつくり上げる創作料理の世界へと踏み入れて行った。
 総領事館の来賓をもてなすのが池田の任務だったが、食材の品質には悩まされた。まず米が悪い。炊きたてはまだ良いが、時間が経つとまずさが出て来る。魚も大きいサーモンやマグロなどばかりで小魚がない。池田は食材を求めてニューヨークの街を歩き、米は何とか使えるカリフォルニア産を探し、小魚や野菜は中華街で見つけてきた。京都の修業時代からの念願だった茶道もニューヨークで習い、日本の料理と文化をアメリカで客観的に見つめ直したのだった。

14年間の「たん熊」を辞めて中国大陸へ

 2003年(平成15)に帰国した池田は東京DOMEホテル店の副料理長となり、ナンバー2として大所帯を切り盛りした。だが、伝統を重んじる京料理は、自由な発想で作り上げるニューヨークの日本料理と対極にあった。「しきたりにとらわれることのない料理に挑戦してみたい」。こうして2006年(平成18)3月、14年間勤めた「たん熊」を退社。ニューヨーク暮らしが料理人としての池田を進化させたのである。
 間もなく北京で料理店を展開する「Jazz—ya」グループから声がかかり、グループの日本料理部門である「三里屯Izakatya橋場」の料理長に就任。斬新な創作日本料理を次々と作り上げて行った。食材は北京ですべてをそろえ、中国人が好むサーモンを多用し、京料理では御法度のマヨネーズも使った。日本では必須条件の季節感は中国では理解されず、こだわりの部分を違う方向に向けた。
 中国人にも受ける日本料理を生み出す池田に、独立のチャンスが巡ってきた。「一緒に料理店をやらないか」。大連に住む中国人からの誘いである。池田は昨年4月に初めて大連を訪れ、手応えを感じた。新鮮な素材がそろう環境、街の規模もちょうど良いし、どこか福岡に雰囲気が似ている。日本料理店はたくさんあるが、大連にはないタイプの料理店なら勝負できそうだと踏んだ。
 こうして昨年の7月7日に「寿司楽」、11月11日に「居酒屋楽」を相次いでオープンさせた。まるで西洋レストランのような寿司屋と居酒屋。スタイリッシュな構えは、確かに大連にはないタイプで地元の日本人、中国人に鮮烈な印象を与えた。寿司も料理も美味しさだけでなく、斬新なオリジナル性を打ち出したのである。「大連で食材を加工して中国各地で展開したい」と夢も広がる。
 そして池田にはやるべきことが明確になってきた。人材の育成である。「たん熊」で育てられ、部下を育ててきた池田。その経験を惜しみなく中国人スタッフに注ごうとしている。
 「スタッフの素地は良いものがある。私が身につけたことはすべて教えてやりたい。しっかりした技術を持った料理人を育て、美味しくて楽しい日本料理を多くの人に食べていただきたい」

この投稿は 2011年1月26日 水曜日 6:20 PM に Whenever誌面コンテンツ, ヒューマンストーリー カテゴリーに公開されました。

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掲載日: 2011-01-26
更新日: 2012-06-06
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