観光情報


大連ホテル1(旧遼東ホテル)

大連ホテル(旧遼東ホテル)


大連市中山区上海路6号
0411-8263-3171

1930年に93室のホテルとして正式開業した遼東ホテルは庶民派のホテルとして活躍。旧ヤマトホテルも徒歩圏内です。日露戦争中に一部開業し、1909年には旅順へ向かう途中の伊藤博文も宿泊しています。
1階には当時から百貨店があり、現在は地下1階は洋服店、1階と中2階はスーパーが入っています。また、最上7階は戦後に増築されたものです(レストラン)。

現在も二つ星の大連飯店(ホテル)として現役で活躍中です。◇○飯店というとレストランのようなイメージもあると思いますが、ホテルという意味もあります。

竣工 1930年 大連市浪速町3丁目(現 天津街・上海路)
設計 小野木横井共同建築事務所




ロシア街がわから見た大連ホテル


すぐ隣は天津街です。戦前は大連一の繁華街である浪速町として個人商店やデパートが並ぶ歩行者天国でした。天津街は2003~5年ごろに整備されて近代的な通りに生まれ変わりました。



大連ホテルの入り口付近

大連飯店入り口


照明が弱いため夜間も薄暗い入り口。フロントは正方形型で狭く感じます。

また、本来はホテルのカテゴリーで掲載するべき情報だと思います。しかし少し様子を見てから考えたいと思います。
宿泊料金は時期によって差があるようです。シングル(標準間)で1泊100~200元ほどのとのことです。

宿泊者によると日本のビジネスホテルを一回り広くしたほどの部屋。床はカーペットが敷かれていたそうです(標準間)。

オンラインでの予約は機能していないらしく、電話か直接行って予約する必要がありそうです・・・・・・。



階段(上から)

ホテル内一番奥の階段


上からの様子です。後で確認したらここは宿泊客でも緊急時以外は立ち入り禁止なんだそうです。
上からのぞき込むと吸い込まれるような感じです。なんだかドラゴンクエストのダンジョンのようにも見えます。

大連飯店には階段が2つあります。入り口側の右手ある階段とこの奥の階段です。入り口近くの階段は1階から最上階までつながっているようです。しかし、何もない装飾や造りを見るとオリジナルから大きく変更されたものだと思われます。


一番下の階段の歴史ある!?手すり

同じ階段の一番下の歴史ある!?手すり


1階かと思いきや、2階です(中2階を挟んでいるので3階?)。奥の階段は2階から始まっています。資料がないので確認できておりませんが、この非常用階段はほぼ当時のままではないかと推測しています。

通常使用禁止など使用頻度が低かったので保存できたのでしょうか!?決して重厚ではないけど、いい感じの趣を持った手すりだと思います。


階段(下から)

下から眺める階段


とても歴史を感じさせてくれる階段です。一番上の天井は増築した7層部分です。
また、各階の外側には非常階段がある人一人くらいしか出ることができないような小さなバルコニーがあります。


大連飯店の廊下

5階客室フロアーの廊下


現在の一般的なホテルとくらべると少し薄暗い感じですが遼東ホテル時代から構造は変わっていないと思われます。



最上階からの眺め

最上階からの眺め


レストランがある最上7階からの眺めです。右側の道は天津街、昔の浪速通です。左奥の黄色い建物はマンハッタンです。仮創業の100年前遼東ホテル時代はヤマトホテルよりも高く周辺でもっとも高さのある建物でした。100年後の現在は周辺の高層ビルに埋もれてしまい目立たなくなっています。



遼東ホテル


遼東ホテル1

旧遼東ホテル


撮影年度は不明。分かりづらいですが最上階部分がないことから創建時に近いと判断できます。

出典&参考サイト:中村與資平記念館別館

2008年出版の『幻の大連』によると最上階は第七天国というダンスホールだったそうです。
ダンスの上級者は現在の久光にあったペロケへ。そして、初級者や家族連れはこの第七天国でダンスを楽しんだそうです。

第七ということは当時は中2階も階数に数えて6階部分を7階と呼んでいたのでしょうか。遼東ホテルの外観は6階建てですが、中2階が存在するので内部は7階層です。
ちなみにホテル内のエレベータは外観通りの階数です。中2階には停止しません。

現在の6階レストランを覗いた印象ではダンスホールにしては天井が少し低いような感じもします。または、屋上部分にテントでも張ってダンスホールとしたのかもしれません。そちらの方が納得しやすい感じもします。
情報が不足しているため引き続き調べて追記します。



遼東ホテル2

戦前の絵葉書より。左奥の茶色い建物が遼東ホテルです。最上階部分があるため上記古写真より新しい時代の様子だと思われます。
当時と現在を比較すると壁の色は赤茶系だったことが分かります。

出典:みに・ミーの部屋

文化大革命の前期ごろ最上階レストランを封鎖して造反組と革命派の大激突が起こった舞台となりました。しかし、このことを語れる人があまり残っていないのが残念です。

超食糧難の時代にレストランから馒头(マントウ=中国のパン)が外へ投げられて多くの人が拾いに集まったり、対面のビルから放水車を使って放水して攻撃したそうです。

※注意
史実の部分がまだ曖昧であるため確認後、順次アップデートしていく予定です。事実、史実の間違えがあるときはお手数ですがご指摘いただけると嬉しいです。



アクセス/地図



<バス>15、16、23、710、810、K910など中山広場 <電車>201 勝利橋